1月9日
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1月9日の出来事
1918年 – 三俣の大雪崩: 新潟県三俣村(現・湯沢町)で大規模な雪崩が発生、死者155名。記録に残るものでは日本最悪の雪崩災害。
1996年 – 足立区で女性の首なし焼死体が発見される。(足立区首なし殺人事件)
1983年 – 中川一郎、政治家(* 1925年)逝去58歳。
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1918年 – 三俣の大雪崩: 新潟県三俣村(現・湯沢町)で大規模な雪崩が発生、死者155名。記録に残るものでは日本最悪の雪崩災害。
三俣の大雪崩(みつまたのおおなだれ)は、1918年(大正7年)に新潟県南魚沼郡三俣村(現在の湯沢町字三俣)で発生した雪崩災害[2]。三俣雪崩とも呼ばれる。この雪崩に180名が巻き込まれ死者158名(圧死者155名、救助後に死亡した者が3名[2])にのぼり、文献記録に残るうえでは日本史上最悪の雪崩災害である。
概要
1918年1月2日から新潟県内は、暴風雪に見舞われ大雪となっていた (大正7年豪雪)[3]。やがて1月9日午後11時20分頃、三俣村の東側にある前の平の頂上から大規模な表層雪崩が発生[2][3]。雪崩は尾根の杉林で二手に分かれ、一部は小学校に流れて校舎が倒壊、本流は集落にある57戸のうち28戸を倒壊させ、家屋は雪に埋没した[2][3]。
当時、三俣村では水力発電用の水路のトンネル工事が行われており、工事関係者が多数入村していた[3]。
大雪崩の一報を伝えたのは、付近で水力発電所の工事を行っていた作業員である。彼は深夜に猛吹雪の芝草峠を越えて、隣町の湯沢町にこの情報をもたらしたのであった。大規模な救助隊[注 1]が編成されて救助にあたったが、夜半の災害で多くが就寝中に受災したこともあり、180名が雪崩に巻き込まれ、圧死者は155名[4]という大きな被害となった[注 2]。
1996年 – 足立区で女性の首なし焼死体が発見される。(足立区首なし殺人事件)
概要
1996年(平成8年)1月9日、足立区の駐車場で布団に包まれた女性の首なし焼死体が発見された。女性死体は陰部が切り取られていた。警察は被害者が41歳女性であり、当時同居していた人物が小野 悦男だったことをつきとめた。
小野は1968年から1974年に発生した首都圏女性連続殺人事件で犯人視され、その内の松戸市の1事件で殺人罪で起訴され1986年に一審で無期懲役判決が出たが、1991年に無罪を勝ち取っていた。その後、小野は代用監獄や自白偏重捜査を批判する冤罪のヒーロー的存在となっており、刑事裁判の過程で出来た支援団体の存在があった。そのため警察は慎重に捜査を進め、遺体に付着していた体液と照合しようと、浮浪者に変装するなどして彼の唾液を採取した。
4月26日、小野が5歳の幼女に性的暴行を加え首を絞めた殺人未遂罪の容疑で逮捕される。DNA鑑定により、首なし遺体に付着していた体液のDNAと、小野のDNAが一致。
5月2日、小野の家宅捜索で、裏庭の地中から首なし遺体と切断面が合致する頭蓋骨と遺体切断に使われたノコギリ、さらに切り取られた陰部を冷蔵庫から発見。これにより小野が殺害を自供した。
供述によると「女性と公園で出会い同居生活を始めたが、1月5日の夜、女性が家事をしないことで口論となり、頭をバットで殴ったところ死亡してしまった。せめて彼女の実家に骨だけでも返したくて、遺体を焼いたがなかなか骨にならず、頭部だけ持ち帰った」という。
1999年(平成11年)2月9日、小野に対して殺人罪で有罪とし、無期懲役が確定した。
その他
この事件では、窃盗や暴行などの数々の前科がありながら小野が殺人事件で無罪となったことで冤罪のヒーローとして無批判に持ち上げたことは一面的な観点であったと批判が出た。
また、無罪となった松戸事件を始め、その他の首都圏女性連続殺人事件の中にも、小野が関与した事件もあったのではないかという疑念も出た。
1983年 – 中川一郎、政治家(* 1925年)逝去58歳。
中川 一郎(なかがわ いちろう、1925年(大正14年)3月9日 – 1983年(昭和58年)1月9日[1])は、日本の政治家。衆議院議員。自由民主党の派閥・中川派の領袖。正三位勲一等。 農林大臣(第49代)、農林水産大臣(初代)、科学技術庁長官(第35代)、原子力委員会委員長(第35代)。
晩年
総裁選後間もない1983年(昭和58年)1月9日、札幌パークホテル10階1022号室バスルーム[12]にて中川が死んでいるのを、妻の貞子が発見した。当初死因は「急性心筋梗塞」と発表されたが、2日後に「自殺」に訂正された。57歳没。
自殺説と他殺説
先述したように、公式には中川の死は自殺とされ、遺書は残されていないが原因としては「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にまでのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった。」というのが定説である[22]。また中川の秘書から北海道選挙区選出参議院議員となった高木正明が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされ、死の2日後には火葬されている。しかし、遺書もなく政治家としては早急な火葬、また死因の変更などから、中川の死はいくつかの疑問点があるとして今もって議論されることがあり、特に他殺の可能性について指摘されることもしばしばあるが、当時第一秘書だった鈴木宗男を始め関係者一同は事実無根と主張している。
内藤國夫 1985, p. 251によると、
「中川一郎突然死のあと、巷に流れ出た“噂話”には、さまざまなものがあった。ソ連の対日工作員レフチェンコから中川一郎が巨額な政治献金を受け取っていたのを、中曽根・後藤田ラインに知られ、暴露するぞと脅され、悩んでいたとの話に始まり、総裁選で膨大な金を使いすぎ借金返済に困窮していた、ソ連のKGBに謀殺された、ニュージーランド沖のイカ漁や韓国の水産関係者との利権を“角筋”によって絶たれた、さらには、総裁選挙後に“肝臓ガン”を告げられ悩んでいた等々などが主なものである。いずれも根拠のない、無責任な“噂話”ばかりである」
という。
なお、2010年10月、鈴木は中川が1975年7月に世界銀行の招待で南アメリカ諸国を歴訪する出発前日に全日本空輸の藤原経営管理室長と料亭で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと、さらに後の東京地検特捜部による「ロッキード事件」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、1976年8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを月刊誌『新潮45』の記事で証言している。鈴木は、このことを後の1982年に福田赳夫に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては中川の妻の貞子が否定している[23]。
中川の死から5日後の1983年1月14日、東京のソ連大使館からモスクワに宛てたKGBの暗号電報に、ソ連のスパイであり、テレビ朝日専務だった三浦甲子二の話として「中川は明らかに他殺だ。CIAの手先に消された」と記されていたことが明らかになっている。ほか、「鈴木はCIAと結託して中川を収賄疑惑に引き込んだ」との記述も確認されている[24]。
チャットgpt先生の1月9日のエッセイ
1月9日のエッセイ:
1月9日は歴史的な出来事が多く起こった日の一つです。その中で特に注目すべきは1918年の三俣の大雪崩です。この雪崩は新潟県三俣村で発生し、死者155名という壊滅的な被害をもたらしました。雪崩は大正7年の暴風雪の影響を受け、1月9日に発生しました。三俣村では水力発電用の水路のトンネル工事が行われており、工事関係者が多数入村していたことが災害の要因となりました。夜半に発生したため多くの人が就寝中に巻き込まれ、救助隊が出動しても被害を抑えることができませんでした。
また、1996年には足立区で首なし焼死体が発見されるという事件が発生しました。被害者は41歳の女性であり、当時同居していた小野悦男という人物が犯人として逮捕されました。この事件では、小野が冤罪のヒーローとされていた過去があり、無罪となった松戸事件を含む首都圏女性連続殺人事件にも関与していた可能性が指摘されました。
また、1983年には政治家の中川一郎が亡くなるという出来事もありました。彼の死因には自殺説と他殺説があり、一部では公式には自殺とされていますが、疑問点も多く残されています。中川は自民党において重要なポストを務め、政治の舞台裏で様々な出来事が起こっていたようです。彼の死にまつわる謎や噂話も多く、当時の政治情勢との関連性も考えさせられる点があります。
これらの出来事は、歴史の中で影を落とす重大な事件であり、日本の社会や政治の変遷を理解する上で重要な日付となっています。