1月8日
20240108月曜日 旧暦11月27日 先勝 辛未かのとひつじ シンピ 成人の日
月齢 26.1
年末まであと357日
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%888%E6%97%A5
1月8日の出来事
1642年 – ガリレオ・ガリレイ、天文学者(* 1564年)逝去78歳。
1932年 – 桜田門事件: 陸軍観兵式の帰途、天皇陛下の馬車が桜田門の警視庁前を通りかかったとき、群衆の中から手榴弾が投げられる昭和天皇暗殺未遂事件が発生[1]。
1934年 – 京都駅構内で呉海兵団入営臨時列車の見送り客圧死事故。(京都駅跨線橋転倒事故)
1941年 – 戦陣訓が布告される。
1948年 – マンテル大尉事件が起こる。
————————————————————–
1642年 – ガリレオ・ガリレイ、天文学者(* 1564年)逝去78歳。
ガリレオ・ガリレイ(伊: Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 – グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの自然哲学者、天文学者、数学者[1][2][3]。
近代科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる[4]。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。
名前
トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる[5]。イタリア語が分かる人にとっては、ガリレオの名は当時のヨーロッパの文化を反映した、キリスト教徒的な名前であり、「Galileo」は「ガリラヤの人(ガリラヤ人)」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」や「キリスト教徒(たち)」を指しうる。定冠詞を付けた単数形 「il Galileo 」はキリスト教徒にとっては、(ガリラヤ出身の人である)イエス・キリストを主に指す、婉曲表現である。
イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名(いわゆるファーストネーム)で呼ぶ習慣がある(ほかにも、ダンテ・アリギエーリ、レオナルド(ダ・ヴィンチ)、ミケランジェロ、ラファエロ、ナポレオン(イタリア系フランス人)など)ため、名を使って「ガリレオ」と呼称されることが多い。欧州ではオランダ、ドイツ、スカンジナビアではGalilei、フランスではGaliléeとファミリーネームで呼ばれているが、ほとんどの国ではファーストネームで呼ばれている。ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた[6]。
晩年
晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。ユストゥス・スステルマンス(en)による肖像画。
当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦[注 2] に巻き込まれる中で、次第に敵を増やす形になってしまい[13]、ついにはガリレオのことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実に異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ったりすることになった[13]。職を失い経済的に苦境に立たされ、齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるように、ガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637 – 1638年頃には失明した。
しかし、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に77歳で息を引き取った。
1932年 – 桜田門事件: 陸軍観兵式の帰途、天皇陛下の馬車が桜田門の警視庁前を通りかかったとき、群衆の中から手榴弾が投げられる昭和天皇暗殺未遂事件が発生[1]。
桜田門事件(さくらだもんじけん)は、昭和7年(1932年)1月8日に起きた昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件で、四事件ある大逆事件の一つ(最後)である。犯人は大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李奉昌で、天皇に危害を加えようとしたなどで大逆罪に問われ、死刑となった。李奉昌大逆事件[2][3][4]とも。
9月30日午前9時15分、大審院特別刑事部の和仁裁判長は被告李奉昌に刑法第73条により死刑を言渡した[5]。10月10日、市谷刑務所にて死刑が執行された。
1934年 – 京都駅構内で呉海兵団入営臨時列車の見送り客圧死事故。(京都駅跨線橋転倒事故)
京都駅跨線橋転倒事故(きょうとえきこせんきょうてんとうじこ)は、1934年(昭和9年)1月8日に、京都市下京区の京都駅構内で起きた群集事故である。死者77人、負傷者74人を出す惨事となった[1][2]。
事故の概要
1934年1月8日、広島県呉市の海軍海兵団に入団する新兵715人[3](ほかに付添人約300人)を輸送する臨時列車が京都駅から運行されることになっていた。
臨時列車は当日午後10時22分に京都を発車するダイヤであったが、早い時間から見送りの関係者(新兵の家族のほか在郷軍人会や青年団など、数千人とみられている)が駅構内に詰めかけた。しかし、おびただしい人数のため、改札口(中央口)に面した1番ホームは立錐の余地もない状態になっていた。
当時「入営」は特別な意味を持ち、現地では軍歌も演奏されて熱狂的な騒ぎを呈した。入場券の販売停止や改札制限をすると改札口が壊されたり、駅員が雑踏整理を試みると「ケチをつける気か」と怒鳴り返されたりする混乱ぶりで駅員の制御が及ばない状況だった[2]。
危険を感じた駅員は、群衆を第3ホーム(現在の4・5番線)に誘導しようとして、既に多くの人がいた西跨線橋[4]を避け、東跨線橋[5]から第3ホームに群衆を下ろそうとしたが、ホームに通じる階段も既に人であふれており、身動きが取れなくなっていた。
京都府警察史(1980年発行)によると、午後10時10分頃、臨時列車の発車時刻が近付き、跨線橋の人々がホームへ見送りに行こうと動き出した。その群衆の中で子供が転倒。助け起こそうとした人らが周囲に空間をつくったところ、人の波が連鎖的に押されていき「一挙に十数人が将棋倒しになった」という。階段の群衆は折り重なるように倒れていき、最下段付近で二百数十人が下敷きになった[1]。
負傷者は京都衛戍病院(現・国立病院機構京都医療センター)や京都府立病院(現・京都府立医科大学附属病院)に搬送された[1]。結果として77人が死亡、74人が負傷する大事故となった[2]。犠牲者には入団予定者2人のほか、婚約者の弟の見送りに訪れていた新興キネマの女優・原静枝や[1]、大部屋俳優の男性も含まれていた[6]。
1941年 – 戦陣訓が布告される。
戦陣訓(せんじんくん)は、
戦陣での訓戒のこと[1]。日本では室町時代や戦国時代に多く発表され、家訓などともに読まれた[1]。
また、特に1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)を指す。陸訓一号も軍人としてとるべき行動規範を示した文書だが、このなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、法規範として軍人・民間人による玉砕や自決の原因となった[2]。
軍隊内部では、奉読が習慣になっていたといわれ、野砲兵第22連隊では起床後の奉読が習慣になっていた[14]。同様の体験談がある一方で、軍人勅諭は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかったという指摘もある[15]。司馬遼太郎は関東軍で教育を受け、現役兵のみの連隊(久留米の戦車第1連隊)に属してほんの一時期初年兵教育もさせられたが、戦陣訓が教材に使われている現場を見たことがない、幹部候補生試験などでも軍人勅諭の暗記はテストの対象になるが戦陣訓はそういう材料になっていなかったように思える、と書いている[16]。
軍機漏洩
日本軍は兵士が捕虜になることを想定せず、捕虜となった場合にどうふるまうべきかという教育も一般兵士に施さなかった。真珠湾攻撃の際に捕えられた酒巻は海軍兵学校出の将校であったため機密を漏らすことはなかったが、一般兵士はいったん敵軍に捕えられてしまうとどうふるまうべきかを知らなかった。1942年、アメリカは日系二世兵士を中心とするATIS(連合国軍翻訳通訳部)を組織し、捕虜や日本兵の陣中日記から日本軍の情報を割り出していった。捕虜から情報を引き出すには、手厚い待遇が功を奏したが、同時に「捕虜の本名を日本に伝える、という脅し方」も有効であったという[23]。
東條英機は「戦陣訓」を作った責任があると述べている[31]。しかし、前述のとおり東條は実際には制作に関わっていない。その一方で、「戦陣訓」は東條のときに制定され、東條の名で示達されたため、陸軍においても東條のイメージと密接に結びついているのも事実である。
1948年 – マンテル大尉事件が起こる。
マンテル大尉事件(マンテルたいいじけん、Mantell Incident)は、1948年1月7日にアメリカ合衆国ケンタッキー州北部のルイビル近郊で発生した未確認飛行物体 (UFO) 目撃とそれに伴って起こったアメリカ空軍機の墜落事件。
チャットgpt先生の1月8日のエッセイ
1月8日の歴史的出来事とその背景
1月8日は歴史上重要な出来事がいくつか起きた日であり、その中でも特に注目される出来事を振り返ると、様々な分野での出来事が人々の記憶に残っています。以下にその一部を紹介します。
1. ガリレオ・ガリレイの逝去(1642年)
ガリレオ・ガリレイは、イタリアの天文学者であり、近代科学の父として広く称されています。彼は地動説の提唱や望遠鏡を用いた天体観測などで知られ、科学的手法の確立に大きく貢献しました。しかし、権力者の圧力や異端審問の影響を受け、晩年は困難な状況に直面しました。彼の逝去は科学界に大きな喪失感をもたらしました。
2. 桜田門事件(1932年)
昭和天皇の暗殺未遂事件である桜田門事件は、日本の歴史においても重大な事件とされています。襲撃者は大韓民国臨時政府の関与があり、昭和時代の政治的状況を反映しています。事件は社会に大きな衝撃を与え、その影響は政治や外交の動きにも及びました。
3. 京都駅跨線橋転倒事故(1934年)
京都駅跨線橋転倒事故は、広島県呉市の海軍海兵団新兵の臨時列車の見送りで発生した惨事です。人々の熱狂と混雑が原因で、軍人の入営に関する国家的な出来事が悲劇へとつながりました。この事故は大勢の犠牲者を出し、社会に悲しみをもたらしました。
4. 戦陣訓の布告(1941年)
戦陣訓の布告は、陸軍大臣東條英機によって行われました。この訓令は日本の軍人に対して特定の行動規範を示し、その中には後に問題となるような内容も含まれていました。特に、「生きて虜囚の辱を受けず」という一節が戦後の歴史と深く結びついています。
5. マンテル大尉事件(1948年)
マンテル大尉事件は、未確認飛行物体(UFO)の目撃とアメリカ空軍機の墜落を伴った事件です。これはUFOに関する初期の報告の一つであり、未解明の現象に対する興味を一層高める要因となりました。
これらの出来事は歴史の一ページを形成し、社会や科学、軍事などの様々な側面から見ることができます。1月8日の出来事を振り返ることで、過去の教訓や影響が現代にも及ぶことを考えさせられます。