kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月7日1935神奈川赤痢騒動、1943ニコラテスラ没、1996岡本太郎没 写真wikipedia放電実験室で読書するニコラテスラ

1月7日

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1月7日の出来事

1935年 – 神奈川県川崎市内で赤痢患者が大量発生。死者21人以上、市内における同月末までの発病者は1357人となった[2]。

1943年 – ニコラ・テスラ、電機技師、発明家(* 1856年)逝去87歳

1996年 – 岡本太郎、芸術家(* 1911年)逝去85歳

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1935年 – 神奈川県川崎市内で赤痢患者が大量発生。死者21人以上、市内における同月末までの発病者は1357人となった[2]。

1935年1月7日、市内で赤痢患者が多発。次第に規模が拡大したため、感染源として水道水が疑われた。1月9日、川崎市は水源となっていた多摩川付近を「大消毒」、水道水の消毒液濃度を上限まで引き上げるとともに、鋼管附属病院、富士紡績附属病院、隣接する横浜市鶴見区の浅野病院を一時隔離病舎として借り受けた。また、川崎警察署内に防疫本部を設置するとともに、予防措置として市内の川崎高等女学校、小・中学校の休校を決定した[1]。

1月9日の赤痢による死者は17人、10日午前中までに死者は4人と記録的な数字となったため、多摩川の対岸にあたる東京市も警戒を強めた。警視庁は、六郷橋を挟んで対岸にあたる蒲田警察署に対して、市民に川崎市で飲食をさせないようにすることなどを指示、感染者の拡大に備えた[2]。

1月10日、感染経路が特定できないことから。川崎市内の小学校が一斉休校することとなった[3](同月21日再開)。

1月11日、臨時市議会が開催。出席した議員より、多摩川の集水箇所付近に人糞屎尿を肥料とする耕作地があり、多摩川の増水に伴い汚水が流入したのではないかとの指摘があった。川崎水道部長は施設が不十分であったことを認めて陳謝したものの、川崎市長は水道水の汚染と認めなかった[4]。市内における同月末までの発病者は1357人となった[5]。

1943年 – ニコラ・テスラ、電機技師、発明家(* 1856年)逝去87歳

ニコラ・テスラ(Nikola Tesla [ˈtɛslə] TESS-lə; セルビア語キリル・アルファベット: Никола Тесла, 発音: [nǐkola têsla]; 1856年7月10日 – 1943年1月7日)は、セルビア系アメリカ人[1]の発明家、電気技師、機械技師。

渡米から後半生

ところが、欧州では彼が開発した誘導モーターに興味を抱く人に巡り会えず、渡米を決意[3]。1884年の渡米時点では所持金も殆ど無く、自分で詠んだ詩や飛行機械のアイディアに関する計算を記した書類といったような物しか持っていない状態であった[3]。エジソンのエジソン電灯会社の求人を見つけ採用される。当時、同社は直流による電力事業を展開していて、一方、テスラは交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して数ヶ月で失職する。

1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流システムの特許を出願[9]する。

1888年、彼が発明した誘電モーターおよび(交流式の)電気システムについて説明した論文“A New System of Alternating Current Motors and Tran.”を執筆[3]。(これが、テスラとウェスティングハウス社との連携へとつながり、「電流戦争」へと繋がってゆくことになる[3]。)1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置された。

この時期、ウェスティングハウスはテスラのためにラボ(研究所)を設立し、さまざまなプロジェクトをまかせた。その中にはたとえばヴィルヘルム・レントゲンのX線の装置の開発などというものもあった[3]。テスラは同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。

1891年、申請が通り米国の国籍を取得[3]。同年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器(テスラコイル)を発明。

1893年、無線トランスミッターを発明する。

シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流システムで電気のいっさいをまかなった[10]。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。

1898年、点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した[11]。

1901年、J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し[12]、1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[13]。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、タワーは新しいオーナーと鉄鋼会社の契約に基づいて1917年に撤去[14]された。

1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった[15]。1938年にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった[16]。

1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける[17][18]。

雑誌『タイム』の1931年7月20日号。75歳の誕生日を迎えたテスラが表紙を飾った。

1928年、「フリバー(Flivver)」と言う名称の「空中輸送装置」の特許を得たが、これは垂直離着陸機(ティルトローター式)の最初期に当たる。

1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去。享年86歳であった。検死の結果死因は冠動脈血栓症とされた。[要出典]晩年は金銭苦に陥り、亡くなった時点でほぼ無一文であった[19][20]。

1996年 – 岡本太郎、芸術家(* 1911年)逝去85歳

生い立ち

岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。

父・一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博し[注 1]、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。

1942年(昭和17年)、大東亜戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。

1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活[5]を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。

1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている[6]。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。

1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て[注 4]、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。

1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)[1]。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。墓所は多磨霊園にあり、同地の父・一平、母・かの子の墓碑の対面に太郎の墓が建てられ、墓石として1967年に太郎が制作した像・『午後の日』の複製が据えられている。

チャットgpt先生の1月7日のエッセイ

1月7日のエッセイ:

1935年のこの日、神奈川県川崎市で赤痢が大量発生し、死者21人以上、市内における同月末までの発病者は1357人に上りました。感染源として水道水が疑われ、市は緊急の大消毒を行い、水道水の消毒液濃度を引き上げました。さらに病院を隔離病舎として使用し、学校の休校などの予防措置をとりました。1月9日には死者が17人に増加し、川崎市内の小学校が一斉休校となりました。感染経路が特定できず、多摩川近くの耕作地が原因ではないかという指摘もありましたが、水道水の汚染を市長は認めませんでした。

1943年1月7日、電機技師で発明家のニコラ・テスラが87歳で亡くなりました。テスラは交流電流の発明や無線通信の基礎を築き、その影響は大きなものでした。彼は様々な発明を成し遂げたが、晩年は金銭的な苦境に立たされ、無一文で亡くなりました。

1996年1月7日、芸術家の岡本太郎が85歳で亡くなりました。岡本は独自のアートスタイルで知られ、戦後の芸術界で大きな影響を与えました。彼は縄文土器に衝撃を受け、その後の芸術活動に大きな影響を与えました。岡本は「死は祭りだ」と語り、葬儀を嫌がりました。そのため葬儀は行われず、お別れ会が開かれました。

1月7日は歴史的な出来事と著名な人物の逝去が織り交ぜられた日です。それぞれの出来事や人物が持つ意義や影響は、時代や文脈を通して見ると深いものがあります。