kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月29日 67ペトロ逆さ張り付けで没(とされる)、1863インディアン ベア川の虐殺、ほか写真wikipediaショ-ショ-ニ族キャンプ

1月29日

20240129月曜日 旧暦12月19日 赤口 壬辰みずのえたつ ジンシン 月齢 17.6

年末まであと336日

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5

1月29日の出来事

67年 – ペトロ、イエス・キリストの使徒たちのリーダー没。62-67歳とされる。

1863年 – 南北戦争・太平洋岸戦線: ベア川の虐殺が起こる。

1940年 – 西成線列車脱線火災事故。

2002年 – アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュが一般教書演説で北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸」と名指し発言。

—————————————————-   

67年 – ペトロ、イエス・キリストの使徒たちのリーダー没。62-67歳とされる。

ペトロ (ヘブライ語: שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה‎[1]、古代ギリシア語: Πέτρος[2]、古典ラテン語:Petrus)(生年不明 – 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストに従った使徒の一人。初代ローマ教皇とされる。

生涯

ホントホルストの『ペトロの否認』1620年頃

『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。

『ルカによる福音書』ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。伝承では、ペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記しており、ここからペトロが結婚していたことが分かる。

ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており[10]、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていること[11]などから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、主イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。

イエスの受難においてペトロは剣を抜き、大祭司の僕マルコスの右耳を切り落とすが[12]、その後イエスを3度否認したことが福音書に書かれている。そうなることをイエスが事前に予告していたことを思い出した時「激しく泣いた」とされている[13][14][15][16]。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている[17]。

『使徒言行録』ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ (イエスの兄弟)がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになり、ヤッファでは亡くなった少女タビタを生き返らせる奇跡を行った。

当時、イエスの教えはユダヤ人のみに与えられる福音なのか、それともユダヤ人以外の人々(異邦人)をも対象としているのかについて議論があったが、ペトロはある日、清い者・清くない者、あらゆる人々に宣教するよう幻を見て、異邦人への宣教も神の意思であることを理解する。カイサリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長をイエスの道へ導いている。「コリントの信徒への手紙一」によれば、ペトロは妻を連れて各地の教会をめぐっていたようである[18]。また、ガラテア書によれば、アンティオキアに割礼を行う一派が来た時に異邦人とともに食事をすることを止め、パウロから非難された[19]。

外典

『聖ペトロの逆さ磔』(カラヴァッジォ画)

聖書にはそれ以上の記述はなく、史実的にも実証できないが、外典である『ペトロ行伝』にも見られる聖伝では、ローマへ宣教し、皇帝ネロによるキリスト教徒迫害下で、逆さ十字架[20]にかけられ、伝承によれば紀元67年に殉教したとされている。また同じ伝承によると、ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてきた。彼が「主よ、どこへいかれるのですか(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。このときのペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クォ・ウァディス、「どこへ行くのですか」の意)はよく知られるものとなり、1896年にはポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがローマにおけるキリスト教迫害を描いた同名小説を記し、ハリウッドでも同名タイトルで映画化されている。

最後の晩餐のあと、キリストはペトロに「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言し、ペトロは「絶対にありえない」と否定するが、翌日キリストが連行され、ペトロがその様子をうかがっていると、周囲から「おまえもキリストの弟子だろう」と詰め寄られると「違う」と否認してしまう。ペトロは再三問われ、3度目に否認した直後、鶏が雄たけびを上げ、その声を聞いてペトロはキリストの予言を思い出し、涙にくれる。この場面は「ペトロの否認」として、レンブラントやカラバッジオ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールをはじめ、幾度となく絵画に描かれている。

1863年 – 南北戦争・太平洋岸戦線: ベア川の虐殺が起こる。

ベア川の虐殺(ベアかわのぎゃくさつ、英:Bear River massacre、またはベア川の戦い、英:Battle of Bear River、またはボア・オゴイの虐殺、英:Massacre at Boa Ogoi)は、1863年1月29日に、当時のワシントン準州南東部ベア川とビーバー・クリーク(現在のバトル・クリーク)の合流点で、アメリカ陸軍が、ショーショーニー族インディアンを無差別虐殺した軍事行動である。

アメリカ軍の虐殺と行動

ショーショーニー族が戦斧や弓矢を使い、アメリカ軍と死に物狂いで戦うようになると、兵士達は自制も規律も全て失ったように見えた。大半の者が殺された後、兵士達は野営地に入ってショーショーニー族の女たちを強姦し陵辱した。子供達の多くも撃たれて殺された。ある場合、兵士達は赤ん坊の踵を掴んで、「やつらの脳味噌を叩きだした」。兵士に降伏を拒んだ女性は射殺された。一人の地元住人、アレクサンダー・ストーカーは、このとき多くの兵士が拳銃を抜いて至近距離からショーショーニー族の者数人を撃ったと述べた。兵士達は手に入れられる物の大半を念入りに燃やした。特にショーショーニー族が寝ていた住居を燃やし、まだ中にいた者も全て殺した[47]。

この戦場跡は現在、アイダホ州フランクリン郡プレストン市近くに位置する。

カリフォルニア志願兵隊は5人の士官を含め27名を失った。ショーショーニー族の部隊は200名ないし400名を失った。アメリカ軍当局は死者272名と報告した。デンマークからの移民ハンス・ヤスパーソンが1911年に書いた自伝では、死体の間を歩いて493体のショーショーニー族の死体を数えたと主張している。

1918年、サグウィッチの息子、フランク・ティンビンブー・ワーナーは「当時いた者の半分は逃げた」と言い、156名が殺されたとしていた。さらに2人の兄弟と1人の義理の姉妹は「生きており」、多くの者は後にユタ入植地のワシャキー、ウィンドリバー・カントリーのホール砦保留地など他の場所で生活したとも付け加えた[52]。

多くのインディアンは冬の間その幼い子供達を白人入植者のところに置いて行くようになり、彼らの何人かは実際にモルモン教徒の家族となって、キャッシュ・バレー初期に他の家族と一緒に写った写真が残されている。

1940年 – 西成線列車脱線火災事故

西成線列車脱線火災事故(にしなりせんれっしゃだっせんかさいじこ)は、1940年(昭和15年)1月29日に大阪府大阪市此花区の鉄道省西成線(現在の西日本旅客鉄道桜島線)安治川口駅構内において発生した列車脱線転覆火災事故である。

駅員の分岐器切り替えの不正操作により、列車通過中に分岐器を転換したため、気動車(ガソリン動車)列車のキハ42000形3両編成のうちの最後尾の1両が2対のレールにまたがったまま進行し、同駅構内の島屋町踏切(現在も同じ名前で存在する)付近の構築物に衝突して脱線・転覆した。その結果、燃料のガソリンへの引火により車両火災が発生し、横転した車両から乗客らの脱出が困難になるなどの悪条件が重なったことから、死者189名、重軽傷者69名を出す大惨事になった。

2002年 – アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュが一般教書演説で北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸」と名指し発言。

チャットgpt先生の1月29日のエッセイ

1月29日は歴史的な出来事が多く起こった日です。以下はその日の出来事に関連するエッセイです。

1月29日の歴史的な出来事

1月29日は様々な歴史的な出来事が起こった日であり、その中で特に注目すべき出来事をいくつか挙げてみましょう。

ペトロの没

紀元67年、この日にはペトロと呼ばれるイエス・キリストの使徒たちのリーダーが亡くなりました。ペトロは初代ローマ教皇とされ、イエスに従った最初の弟子の一人でした。彼の生涯はイエスとの出会いから始まり、イエスの受難や復活にも関与しました。ペトロの姿は聖書によく描かれ、彼の否認や後に行われた伝説的な出来事など、キリスト教の歴史において重要な役割を果たしました。

南北戦争・ベア川の虐殺

1863年、アメリカの南北戦争中には太平洋岸戦線でベア川の虐殺が発生しました。この事件ではアメリカ陸軍がショーショーニー族の無差別虐殺を行いました。武力行使となった背景には土地や資源への争いが絡んでおり、兵士たちの非人道的な行動が露呈されました。

西成線列車脱線火災事故

1940年、日本の大阪で西成線列車脱線火災事故が発生しました。分岐器の不正操作により列車が脱線・転覆し、燃料のガソリン引火により火災が発生しました。この事故では死者189名、重軽傷者69名を出す大惨事となりました。安全対策の不備や人為的なミスが引き起こした悲劇であり、その後の鉄道安全対策の見直しが求められました。

ジョージ・W・ブッシュの発言

2002年、アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュは一般教書演説で北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸」と名指ししました。これはアメリカの対外政策において重要な発言であり、後にイラク戦争などの動きに繋がっていきます。

1月29日は歴史的な出来事が多岐にわたり、それぞれが社会や文化に影響を与えた日であると言えるでしょう。