kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月25日 1911大逆事件菅野スガ処刑、1936麻生炭鉱爆発事故、1939チリ中部地震 ほか 写真wikipedia麻生炭鉱労働者

1月25日

20240125木曜日旧暦12月25日 友引 戊子つちのえね ボシ 月齢 13.6

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1月25日の出来事

1902年 – 北海道旭川市で最低気温マイナス41℃を観測。日本における公式の最低気温の記録。

1911年 – 幸徳事件(大逆事件)で管野スガが処刑される。

1936年 – 福岡県桂川村の麻生吉隈炭鉱でガス爆発事故が発生。29人が死亡した[5]。

1939年 – チリ中部でマグニチュード7.8の地震。死者3万人。

1990年 – アビアンカ航空52便墜落事故。73人死亡。

1999年 – コロンビアでマグニチュード6.2の地震。死者1900人。(コロンビア・キンディオ地震)

2019年 – ブラジルミナスジェライス州でヴァーレ社の鉱滓ダムが決壊。死者数120人以上、行方不明者多数[9][10]。(ブルマジーニョ尾鉱ダム決壊事故)

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1902年 – 北海道旭川市で最低気温マイナス41℃を観測。日本における公式の最低気温の記録。

1911年 – 幸徳事件(大逆事件)で管野スガが処刑される。

管野 スガ(かんの スガ、1881年〈明治14年〉6月7日 – 1911年〈明治44年〉1月25日)は、明治時代の女性新聞記者・著作家・婦人運動家・社会主義運動家である。

幸徳事件で処刑された12名の1人で、大逆罪で死刑を執行された唯一の女性死刑囚である。号は幽月[1]。ペンネームでは「須賀子」。

名字は「菅野」と書かれる場合もあるが、誤りである(江戸時代の頃は「菅野」姓であったが、明治になってからスガの父が「管野」に姓を変更した)[2]。

1903年(明治36年)11月には日本組合天満教会で洗礼を受けてキリスト教に改宗した。スガはかつて紙面で娼婦を「醜業婦」と批判したことがあったが、女性地位向上運動の「婦人矯風会」の活動を知って反省し、以降は廃娼運動や男女同権の運動にも参加するようになった。

スガが出所した際には毎日電報を解雇されており、アナキズムに共鳴したことから秋水の経済的援助を受けた。スガは秋水と共に「自由思想」を創刊して赤旗事件を糾弾しようとし、肺病を患っていたスガは療養生活を続けるうちに秋水と恋愛関係に発展した。平民社の社内で同棲するようになったが秋水には妻・千代子がおり、スガにも禁錮1年で獄中の夫・寒村がいたため、いわゆる不倫関係だった。この関係はすぐに発覚し、とりわけ秋水に対立する新聞・雑誌で「重婚」「スキャンダル」として大きく報じられて両者とも批判を受けた。これに対してスガは獄中の寒村へ一方的に離縁状を送りつけて離婚したため[2]、寒村から生涯の恨みを買っただけでなく、公然たる不倫が妻も追い出す格好になったことや、平民社では秋水よりスガが優遇されたことから2人の関係は同志の間でも評判が悪くなった。この不倫騒動が秋水の周りから人が遠ざかっていった原因だという評価もある。

最期

1911年(明治44年)1月25日、秋水・宮下・新村らが執行された翌日に処刑された[11]。スガは執行直前に大杉栄夫妻へ手紙を送り、寒村にも言葉を遺したという[12]。前述のようにキリスト教徒であるが、スガの生前の遺言により火葬され、仏式で葬られた。29歳没。法名は釈淳然。

墓は下淀橋町字角筈新町(現:東京都渋谷区代々木3丁目)の正春寺にあり、墓石の正面には辞世の句「くろがねの 窓にさしいる 日の影の 移るを守り けふも暮らしぬ」が刻まれ、裏には「革命の先駆者管野スガここにねむる」とある。

1936年 – 福岡県桂川村の麻生吉隈炭鉱でガス爆発事故が発生。29人が死亡した[5]。

麻生鉱業(麻生炭鉱、のちの麻生商店・麻生産業、現麻生グループ, Aso Mining)は、麻生太賀吉が経営した鉱業会社。かつては麻生グループの根幹をなしていた企業である。

戦争捕虜問題

戦争捕虜

戦前、納屋制度などがあり労働環境が劣悪だとして問題になることがあった。筑豊地方において同社は三菱系についで朝鮮人炭鉱労働者、被差別部落民が多かった。1932年7月25日には朝鮮人による労働争議が起き、これは筑豊全体に広がる大規模なものであった。この背景としては以下のようなものが挙げられる。

長時間労働で危険な仕事にもかかわらず他の炭鉱より安い賃金(他の炭鉱の二分の一ほどの給与)

さらに朝鮮人労働者は給料が2割カットされていた。

食事や住居等最悪の生活環境。

日常茶飯事の暴力。

朝鮮人労働者の休日が無いこと。

場所によっては無給で働かされていたこと。

などが原因となった。この争議には全国水平社も朝鮮人側を支援。対する炭鉱側は警察や暴力団員、特高を動員して争議は行われ、9月3日には現職復帰109人、解雇191人をもってこの争議は終了した[3]。

1939年時点で麻生炭鉱には約1000人の朝鮮人労働者がおり、労働環境は過酷でダイナマイトなどを使う危険な作業により1日に一人から二人は亡くなり、1940年代以降、朝鮮人労働者が大きく増えたため朝鮮人寮が別途あったが、自由のない収監所同然の生活だったと中央日報は主張している[4]。

さらに賃金がまともに支給されなかったり、日常的に暴力を振るわれたりするなどした結果、1944年に福岡県が作成した「移入半島人(朝鮮人)労務者に関する調査表」によれば、過酷な労働環境により麻生鉱業の全労働者7996人のうち61.5%にのぼる4919人が逃走したとされる[4]。

2008年12月18日、民主党の藤田幸久参議院議員の求めで開示された厚生労働省保管文書により、麻生鉱業には外国人捕虜 300人(イギリス人、オランダ人、オーストラリア人)が、1945年5月10日から同年8月15日まで、麻生鉱業吉隈炭坑で労働していたこと、うち2人のオーストラリア人捕虜が死亡していることが明らかになった[5]。

2009年4月、戦時中に炭鉱で強制労働させられていた元戦争捕虜のオーストラリア人3名が、親族で内閣総理大臣(当時)の麻生太郎に対して謝罪と補償を請求した[6]。

1936年(昭和11年)1月25日、麻生吉隈炭鉱でガス爆発事故が発生。29人が死亡した[7]。

1939年 – チリ中部でマグニチュード7.8の地震。死者3万人。

1990年 – アビアンカ航空52便墜落事故。73人死亡。

アビアンカ航空52便墜落事故(アビアンカこうくう52びんついらくじこ)は、アメリカの東部標準時 (EST) 1990年1月25日21時34分ごろ、アビアンカ航空のボーイング707型旅客機が燃料切れを起こし墜落した航空事故である。

被害

事故機の残骸

墜落の瞬間機体は、前部、中央部、尾部に分裂したが、燃料がほとんどなかったため火災は発生せず、生存者が多かった。乗員乗客158人中、生存者(負傷者)85人、死亡者は73人だった[4]。死亡者の中には大破した操縦室の中で死亡したコックピットクルー(機長、副操縦士、航空機関士)3名も含まれる。

事故原因

機体前方部の残骸

散らばった事故機の残骸

墜落の直接原因は、待機飛行が予想以上に長引いたために搭載した主燃料、予備燃料ともにすべて使い切り、エンジンが停止し墜落したことである[5]。

1999年 – コロンビアでマグニチュード6.2の地震。死者1900人。(コロンビア・キンディオ地震)

2019年 – ブラジルミナスジェライス州でヴァーレ社の鉱滓ダムが決壊。死者数120人以上、行方不明者多数[9][10]。(ブルマジーニョ尾鉱ダム決壊事故

被災者

2020年1月までに259人の死亡が確認され、11人が行方不明になっている[6]。ヴァーレ会長のファビオ・シュアルツマンは記者会見で被害者の大半が同社の従業員で、コヘーゴ・ド・フェイジョン鉱区の鉱山鉄道では機関車3両と貨車132両が土砂に埋まり、4人が行方不明となっている。また、鉄道橋2本と線路100メートルが泥流に流されて破壊されたと述べた[12]。

チャットgpt先生の1月25日のエッセイ

1月25日の出来事には様々な歴史的な出来事がありました。以下に、その中からいくつかの出来事について詳細を紹介します。

1902年 – 北海道旭川市で最低気温マイナス41℃を観測

この日、北海道旭川市で観測された最低気温がマイナス41℃となり、これが日本における公式の最低気温の記録となりました。

1911年 – 幸徳事件で管野スガが処刑される

幸徳事件(大逆事件)において、女性新聞記者で婦人運動家の管野スガが大逆罪で死刑にされました。彼女は明治時代の女性運動に参加し、幽月という号で知られていました。

1936年 – 福岡県桂川村の麻生吉隈炭鉱でガス爆発事故が発生

麻生吉隈炭鉱で発生したガス爆発事故で、29人が死亡しました。この事故は炭鉱での労働環境の厳しさや問題点を浮き彫りにしました。

1939年 – チリ中部でマグニチュード7.8の地震

チリ中部で発生した大地震で、死者が3万人に上りました。地震による被害が甚大であったことが記録されています。

1990年 – アビアンカ航空52便墜落事故

アビアンカ航空のボーイング707型旅客機が燃料切れを起こし、73人が死亡しました。機体の燃料切れが直接の原因とされています。

2019年 – ブラジルミナスジェライス州でヴァーレ社の鉱滓ダムが決壊

ブラジルミナスジェライス州で発生した鉱滓ダム決壊事故で、死者数が120人以上となり、多くの行方不明者が出ました。この事故はブルマジーニョ尾鉱ダム決壊事故として知られています。

これらの出来事は、日本の気象記録から始まり、社会的・環境的な問題、国際的な航空事故や自然災害まで、さまざまな側面で歴史に刻まれた出来事でした。