kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月23日 1902八甲田山雪中行軍遭難事件、1905ニホンオオカミ最後の一頭捕獲、ほか 写真wikipedia事件前の青森歩兵第五連隊

1月23日

20240123火曜日 旧暦12月13日 赤口 丙戌ひのえいぬヘイジュツ 月齢 11.6

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1月23日の出来事

1902年 – 八甲田山山中にて遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件)。

1905年 – ニホンオオカミの最後の1頭が奈良県で捕獲される。

1910年 – 逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが七里ヶ浜沖で転覆し、全員が死亡。この事件を題材とした「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」は全国で愛唱された。

1941年 – 第二次世界大戦: チャールズ・リンドバーグがアメリカ連邦議会で演説し、ナチス・ドイツと中立条約を結ぶべきと主張。

2020年 – 新型感染症COVID-19により中華人民共和国湖北省の武漢市に封鎖措置が取られる[2]。COVID-19における世界初の都市閉鎖であり、人口1000万人を超える巨大都市である武漢の封鎖は、同年4月8日に解除されるまで継続された。

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1902年 – 八甲田山山中にて遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件)。

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大の山岳遭難事故である。[1]

弘前第31連隊

弘前第31連隊が行軍命令を通知したのは1901年(明治34年)12月20日頃で、出発の1ヵ月前だった[3]。指揮は陸軍歩兵大尉・福島泰蔵。隊は志願者37名の少数精鋭に東奥日報から従軍記者1名を加えた計38名で編成された。出発に先立ち、同隊は沿線の村落や町役場に書簡で食糧・寝具・案内人の調達を依頼した[3]。また、木こり、マタギ、農家から情報収集し、冬山では汗をかかないように配慮することと、足の凍傷予防として靴下を3枚重ね履きした上から唐辛子をまぶし、さらに油紙を巻くなどの防寒の知識を得て実践していた[3]。服装は絨衣袴・冬襦袢・冬袴下・外套を着て手套・水筒・雑嚢・背嚢を装着し藁沓を履き寒地着各一を付着した[5]。行軍中は麻縄で隊員同士を1列に結んだ[3]。

青森第5連隊

青森第5連隊の第2大隊は1902年(明治35年)1月18日、行軍計画の立案者である陸軍歩兵大尉・神成文吉の指揮で予行演習を行った。これは中隊規模(約140名、うちかんじき隊20名)の将兵とソリ1台で屯営 – 小峠間(片道約9km)を往復したもので、好天に恵まれて成功した。これを受け、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口鋠は屯営 – 田代間は1日で踏破可能と判断。1月21日、山口は行軍命令を下し、23日に出発することを定めた[6]。

行軍隊は210名の大編成で、1日分の食糧(米、豆、餅、缶詰、漬物、清酒)、燃料(薪と木炭)、大釜と工具など合計約1.2tをソリ14台で曳く計画だった。ソリの重量は1台約80kgあり、4人以上で曳くこととなる。加えて行李に詰めた昼食用の弁当1食分、道明寺粉1日分、餅2個(1個50匁=187.5g)の各自携行が命じられ、懐炉の使用が推奨された[7][8]。

出発前日、同行する軍医から凍傷の予防と処置に関する事前注意があった。そこでは手指の摩擦や足踏などに加え、露営ではなるべく「睡眠セザル様注意スベキコト」と指示された[9]。将兵の十分な休息は計画しておらず、後述のごとく、物心両面の備えを欠いていた。

遭難経緯

第1日

冬の八甲田山

1月23日午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を申し出るが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うこととなった。

案内人の証言と被害

31連隊と共に田代への道案内で駆り出された地元の一般人も後遺症の残る凍傷などの被害を受けている。国などから補償のあった遭難兵士と違い、道案内の地元民には1人2円の案内料以外は渡されていない[注釈 13]。

後日発表された当時の案内人の言によれば、実際には田代に向けた行進において、引き返すことを進言した案内人を叱り飛ばし無理矢理案内をさせたばかりか、田代近辺の露営地に着くなり休憩する暇も与えず、案内人の一部を人質として拘束した上で、残りの者に田代新湯への斥候を命じたとある。結局、新湯は見つからず、明け方になって開拓者の小さな小屋を見出したが、全員は入りきれず、足踏みをしながら朝まで交代で小屋の内と外で休憩をした。

また、31連隊の福島隊は、八甲田山系の最難関を通過後、小峠付近で疲労困憊の案内人たちを置き去りにして部隊だけで田茂木野に行軍していった。これら案内人はすべて重度の凍傷を負い、うち1名は入院するも回復せず、廃人同様となったまま16年後に死亡、いま1人は凍傷のため頬に穴があき、水を飲むのにさえ苦労したという。これらの事実は1930年(昭和5年)になって初めて明らかにされ、地元では“七勇士”として、その功績を称える石碑も翌年に建立された[46][49]。

陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈された福島大尉の遺品に、7人の案内人を提供した大深内村の村長からの、「連隊長及び福島大尉の念書を頂いて用立てした案内人が重度の凍傷にかかり、治療費を陸軍に負担して貰う旨村議会で全会一致で議決したため、議決書や診断書をお送りしますのでご補助をよろしくお願いします」との内容の手紙がある[50]。

1905年 – ニホンオオカミの最後の1頭が奈良県で捕獲される。

2003年に「1910年(明治43年)8月に福井城址にあった農業試験場(松平試農場。松平康荘参照)にて撲殺されたイヌ科動物がニホンオオカミであった」との論文が発表された[7][3]。だが、この福井の個体の標本は太平洋戦争中の福井空襲により写真を残して焼失したため、最後の例と認定するには学術的には不確実である[3][注 1]。

2012年4月、1910年に群馬県高崎市でニホンオオカミ狩猟の可能性のある、同年3月20日発行の狩猟雑誌『猟友』が発見された[8]。

環境省のレッドリストでは、「過去50年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅した」とされるため、ニホンオオカミは絶滅種となっている。

生存の可能性

紀伊半島山間部では、1970年代に捕獲された動物がニホンオオカミではないかと騒動になった事例が複数あった。昭和48年8月16日、和歌山県田辺市長野伏菟野(ふどの)にある果無山系の槇山の水路で動物の死体が発見された[34]。同8月20日、衰弱した同様の動物が発見された[35]。動物考古学者の直良信夫は、イヌ科の動物であるという以外にはっきりとはいえないが、ニホンオオカミが野良犬と雑交しながら生きてきたことは間違いなく、そのなかで先祖返りした可能性もあると述べた[36]。同8月22日、野生動物研究家、作家の斐太猪之助は、二体の後ろ足には、オオカミヅメがないものの、頭頂部から鼻先までが平くて長い頭部、第一中手骨の位置、ちぢれた体毛で枝毛があるといった特徴から、ニホンオオカミであると断定した(狸は顔が丸く、口先が尖り、毛は柔らかい。犬は頭頂部から鼻先までの傾斜が急で、毛はちぢれていない。狸も犬も第一中手骨の位置が高い)[37]。

在野の動物学者、作家の平岩米吉は、それらの事例はタヌキの幼獣や野犬、キツネを誤認したものであったと断じている[38]。

また、秩父山系でも1996年にニホンオオカミに酷似した動物が撮影された(秩父野犬)[39]。これについてはニホンオオカミであるとする説と、野犬であるという説で専門家の見解が割れている。

また、大分県・祖母山でも2000年にニホンオオカミと酷似した動物の写真が撮られている(詳しくは四国犬を参照のこと)。

1910年 – 逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが七里ヶ浜沖で転覆し、全員が死亡。この事件を題材とした「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」は全国で愛唱された。

「真白き富士の根」(ましろきふじのね)は、1910年に逗子開成中学校の生徒ら12人を乗せたボート「箱根号」が七里ヶ浜沖で転覆、全員死亡した事件を歌った歌謡曲である。「真白き富士の嶺」[注釈 2]、「七里ヶ浜の哀歌」(しちりがはまのあいか)とも呼ばれる[注釈 3]。逗子開成の系列校である鎌倉女学校の生徒が鎮魂歌として合唱し、世間に知られるようになった。生徒の死が美しく表現されたこの歌により、世間は事件への同情を深めることとなった[1]。1915年にレコードが発表され、日本全国で歌われた[2]。

この歌を演奏することは逗子開成中学校ではタブーとされてきたが、逗子開成創立90周年の1993年にPTAが歌うことを希望して記念式典で合唱され、解禁となった[2]。この時に「PTAコーラス」が発足し、2004年には在校生と卒業生の保護者による女声コーラスグループ「逗子開成コール・レーネ」が発足した[3]。

1941年 – 第二次世界大戦: チャールズ・リンドバーグがアメリカ連邦議会で演説し、ナチス・ドイツと中立条約を結ぶべきと主張。

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(英語: Charles Augustus Lindbergh, 1902年2月4日 – 1974年8月26日)は、アメリカ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、議会名誉黄金勲章の受賞者。1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。1931年には北太平洋横断飛行にも成功した。

「リンドバーグが大西洋無着陸飛行に初めて成功した」と誤解されがちだが、単独でない大西洋無着陸飛行については、1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが達成している。これは、6月14日から6月15日にかけての16時間でニューファンドランド島からアイルランドへ1,890kmを飛行したものであった(その他の大西洋横断飛行については「大西洋横断飛行」を参照)。

また、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、この台詞は後世の脚色であり[3]、リンドバーグはその時自分がパリに着いたことも分らなかったという。実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」の出所は自伝 “The Spirit of St. Louis”の和訳題であり、日本語では広く知られているが、英語圏ではこれに対応するよく知られた台詞は存在しない。

第二次世界大戦

第二次世界大戦前夜、リンドバーグはアメリカ軍の要請でドイツに何度か旅行し、ドイツ空軍についての報告を行った。1938年にはヘルマン・ゲーリングから勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策やアンシュルスなどの強権的な対外政策を進めるナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。

ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、共和党員であったリンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。1941年1月23日にはアメリカ連邦議会で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。リンドバーグは孤立主義をとなえるアメリカ第一委員会(America First Committee)の主要なスポークスマンであり、1941年9月11日のアイオワ州デモインでの演説では、アメリカを戦争に引きずり込もうとしている3大勢力はイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権であると述べた。この発言にユダヤ系アメリカ人が反発し、フランクリン・ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。

1941年12月7日に日本との戦争が開始されると、リンドバーグは「参戦には反対だったが、開戦した以上は祖国への義務を果たしたい」として陸軍航空隊への復帰を試みたが、上記のようないきさつがあったためにその真意を疑われ、ルーズベルト大統領やヘンリー・スティムソン陸軍長官とその補佐官らに拒否され復帰できなかった[14]。そのため、政府と航空会社(トランス・ワールド航空)に対する民間のコンサルティング会社を通じて、アメリカ政府の戦争努力を援助した。

1944年までに民間人として太平洋で50回の実働任務をこなしており、九九式襲撃機などの日本機とも何度か交戦している。1944年7月28日には、日本占領下のオランダ領東インド(現在のインドネシア)東部にあるモルッカ諸島のセラム島空域でアメリカ陸軍の第433空輸輸送団の支援任務中に日本陸軍の第7飛行師団傘下の独立飛行第73中隊と交戦し、指揮官の島田三郎中尉機を撃墜した[14][15][16]。戦争におけるリンドバーグの撃墜数は生涯を通じてこの1機である。この他、ロッキードP-38での長距離航法やF4Uでの離陸法の発展に貢献した[17]。

また、当時マッカーサーが司令官だった西南太平洋連合国軍(アメリカとオーストラリア軍)による日本兵捕虜の虐殺・虐待をしばしば目撃し、その模様を日記に赤裸々に綴っていた[18][19]。その著書の中で、リンドバーグは「偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻きつき、喉元が『一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた』のだった。このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた。…わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、われわれは文明のために戦っているのだと主張している。…彼ら(西南太平洋連合軍)の欲求は日本兵を無慈悲に、むごたらしく皆殺しにすることなのだ。… ブルドーザーで(遺体を)片付けたあとは墓標もたてずに、こう言うのである。『これが黄色いやつらをば始末するたった一つの手さ』と。…ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋でも日本人に行ってきたのである。」と記している[19]。

一方で、リンドバーグは日本軍による捕虜の人肉食の痕跡を見たという伝聞も記し、その虐殺や虐待も非難した[20][21]。本件については1944年8月11日の日記に書かれており、ビアク島の戦いにおける飛行隊のテントにあった掲示板に、オーストラリア軍が数人の日本兵を捕獲するととともに同胞が肉となって調理されている現場を押さえたとの伝達があったのを見たという[20][21]。これに基づいた訳書や二次資料が無数に発行されているが、同日の日記から具体的な事案を秦郁彦が自著で引用しているので[20]以下に抜粋する。

豪州軍ばかりを責めるわけにはいかない。性器を切り取られたり、ステーキ用に肉を切り取られたりした戦友の遺体を発見しているのだ

— チャールズ・リンドバーグ、[20]

このことからリンドバーグは、連合軍も野蛮だが“東洋人”の野蛮さには及ばないだろうと結論付けている[20][21]。続けて秦は、実際にウェワクでの同様のケースが極東国際軍事裁判でオーストラリア側から問題にされ、同年11月18日付で第41師団歩兵団青津喜久太郎少将が出した、敵を除外とする人肉食禁止令の内部文書の存在があり、同裁判の引例として挙げられたことに触れている[20]。

1945年5月、ドイツが降伏するとリンドバーグはすぐにドイツへ飛び、その強制収容所を訪問した。これについて、開戦前はドイツ支持者だったリンドバーグは日記の中で強い嫌悪と怒りを記した[※ 2]。

2020年 – 新型感染症COVID-19により中華人民共和国湖北省の武漢市に封鎖措置が取られる[2]。COVID-19における世界初の都市閉鎖であり、人口1000万人を超える巨大都市である武漢の封鎖は、同年4月8日に解除されるまで継続された。

チャットgpt先生の1月23日エッセイ

1月23日のエッセイ:

1月23日は歴史に残る出来事がいくつか起きた日であり、その中で特に注目されるのは1902年に発生した八甲田雪中行軍遭難事件です。この事件は、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山に向かう途中で雪中行軍中に遭難し、死者199名(救出後死亡者を含む)を出した悲劇です。冬季の軍事訓練中に最も多くの死傷者を出した事故であり、近代の登山史においても世界最大の山岳遭難事故とされています。

当時、弘前第31連隊と青森第5連隊が行軍命令を受け、冷酷な寒さの中での行軍が計画されました。行軍隊は対策を講じていたものの、適切な準備不足や地元の案内人の助言を断り、厳しい自然条件に晒される中で遭難してしまいました。この遭難は、戦争や冷酷な状況下での訓練においても、人間の命を守るための計画と配慮が欠けていたことを示唆しています。

同じく1月23日には、1905年にニホンオオカミの最後の1頭が奈良県で捕獲された出来事もあります。この日をもって日本オオカミは絶滅種となりました。過去50年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅したとされています。ただし、紀伊半島山間部や秩父山系などで目撃例があるなど、一部で生存の可能性についての憶測も広がっています。

歴史の中で起きたこれらの出来事は、人間と自然、そして動物との関係がいかに複雑であるかを考えさせられます。冷酷な自然に立ち向かう中での遭難や、人間の手によって動物が絶滅の危機に瀕する出来事は、私たちが環境や生命に対してどのような責任を負っているかを深く考えさせられる日であります。