kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月2日 1905旅順要塞陥落、1943ポートモレスビー作戦玉砕、1954二重橋事件ほか 写真wikipedia203記念碑

1月2日

20240102火曜日 旧暦11月21日 先勝 乙丑  月齢 20.1

年末まであと363日

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1月2日の出来事

1905年 – 日露戦争・旅順攻囲戦: ロシア軍の旅順要塞が、乃木希典将軍率いる日本軍により陥落。

1943年 – 第二次世界大戦・ポートモレスビー作戦: ニューギニアのブナで日本軍が玉砕する。

1954年 – 二重橋事件:皇居一般参賀者が二重橋上で将棋倒しになり、16名死亡、56名が重軽傷を負う[3]。

1966年 – テレビ初の怪獣SF『ウルトラQ』放送開始。

1971年 – 寿司由楼火災: 和歌山市新和歌浦の旅館・寿司由楼で火災が発生。16名死亡、15名負傷。

1971年 – アイブロックスの惨事: スコットランド・グラスゴーで行われたレンジャーズ対セルティック戦で将棋倒しが発生し、66名が死亡[5][6]。

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1905年 – 日露戦争・旅順攻囲戦: ロシア軍の旅順要塞が、乃木希典将軍率いる日本軍により陥落。

ロシア帝国の旅順要塞

日清戦争後の下関条約では遼東半島は日本に割譲されたが、三国干渉の結果、清に返還された。代わってロシア帝国が清から遼東半島を租借すると、旅順はロシア帝国海軍の太平洋艦隊の基地として使用されることになった。旅順要塞もロシア陸軍の手によって機関銃の導入など大規模な強化が行われ、二竜山堡塁、松樹山堡塁、東鶏冠山北堡塁など強力な陣地が設置された。

日露戦争では再び日本軍の攻撃を受けて激戦地となり、旅順攻囲戦が発生した。なかでも203高地での戦闘が著名となった。4か月以上の戦闘の末に、1905年1月1日にロシア軍守備隊は降伏した。日本陸軍は旅順要塞司令部を設置し、旅順口鎮守府を置き、旅順口根拠地を築いた。兵員配備・補給は佐世保鎮守府の管掌で、傷病兵は日本郵船の病院船神戸丸で佐世保に運ばれ、佐世保海軍病院で治療を受けた[1]。ロシアが1900年に設立した赤十字病院は、戦後には旅順赤十字病院として日本軍に引き継がれたという[2]。

御前会議を開いてまで決定した「203高地を攻略する」という決定と、大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。

結局12月5日に203高地は陥落する[2]。観測点を設置し港湾への砲撃を開始したが、ほとんどの艦艇は黄海海戦での損傷が直っていなかったことや、要塞防衛戦に搭載火砲や乗員を出していたので戦力としては無力化しており、自沈であったことが戦後の調査で判明している。第三軍も203高地を攻略するとすぐに配置を元に戻して東北方面の攻撃を再開し、ロシア軍も旅順艦隊が自沈しても抵抗を続けた。結果的に要塞の予備兵力が消耗枯渇したロシア軍は、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、それでも1か月ほど頑強に抵抗した。だが正面防御線の東鶏冠山保塁、二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した[3]。

本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。第3次総攻撃では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん、汝の霊をまつる山[4])と詠んだ。

1943年 – 第二次世界大戦・ポートモレスビー作戦: ニューギニアのブナで日本軍が玉砕する。

ポートモレスビー作戦(ポートモレスビーさくせん)は、第二次世界大戦中のニューギニア戦線において、日本軍と連合国軍とがポートモレスビーの支配を巡って行った戦闘。当時はスタンレー作戦と呼ばれ、連合軍側の名称を和訳して、前半をココダ道の戦い (Kokoda Track campaign)、後半をブナとゴナの戦い (Battle of Buna-Gona)とも呼ぶ。

12月の末、ブナの飛行場はついにアメリカ軍とオーストラリア軍に奪取された。わずか十数人になったブナの日本軍守備隊は翌年の1月2日に壊滅した。11月18日上陸の増援部隊を率いた歩兵第144連隊後任連隊長の山本重省大佐と、海軍の横須賀第5特別陸戦隊司令の安田義達大佐は壮烈な戦死を遂げた。米国公刊戦史をして、「世界第一の猛闘 (Toughest Fighting in the World)」と言わしめた。

ブナから奇跡的に生還した日本側の生存者によると、安田義達大佐は数人の司令部要員とともに万歳突撃を仕掛けたものの戦死[23]。山本重省大佐の死は以下のような劇的なものだったという。

(前略)早朝壕を出て、集中射撃して来る敵に向かって、「日本語のわかる者は前に出るように」と叫んだ。すると、この日本語がわかったらしく、敵の射撃がやんで静かになった。山本連隊長は、落ちついた声で敵に話しかけた。「今君達は、勝ち誇っている。物資をやたらに浪費してわれわれを圧倒した。わが軍は一発の弾丸といえども粗末にはしなかった。今に見よ、必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。私を撃つのはしばらく待て。日本軍人の最期を見せてやるからよく見ておけ。大日本帝国万歳。万歳。万歳」 ここで切腹され「さあ撃ってよろしい」。そこで、敵の一斉射撃が起こり、戦死された。[24][25]

オーストラリア側の証言によると二人の将校が壕から出てきて、一人は物影へ去った後に自決、もう一人は投降の呼びかけを無視して三度太陽に祈った後、オーストラリア軍部隊と向かい合った。オーストラリア軍将兵が10数えるうちに降伏するように伝えると日章旗を胸に当て、9まで数えたところで「撃て」と叫んだので射殺したとのことである[26]。

1954年 – 二重橋事件:皇居一般参賀者が二重橋上で将棋倒しになり、16名死亡、56名が重軽傷を負う[3]。

1966年 – テレビ初の怪獣SF『ウルトラQ』放送開始。

1971年 – 寿司由楼火災: 和歌山市新和歌浦の旅館・寿司由楼で火災が発生。16名死亡、15名負傷。

1971年 – アイブロックスの惨事: スコットランド・グラスゴーで行われたレンジャーズ対セルティック戦で将棋倒しが発生し、66名が死亡[5][6]。

チャットgpt先生の12月29日のエッセイ下さい

1月2日に起きた歴史的な出来事を振り返りながら、その日に関連する出来事や背景についてエッセイを書いてみましょう。

1月2日の歴史的な出来事とその影響

1月2日には様々な歴史的な出来事が起きました。そのなかで特に注目すべき出来事を振り返り、その背後に潜む歴史の重みを感じることができます。

1905年 – 旅順攻囲戦の終結

日露戦争の中で、乃木希典将軍率いる日本軍がロシア軍の旅順要塞を陥落させた日でした。この要塞は日清戦争後、三国干渉により清に返還されたものの、ロシアが租借し太平洋艦隊の基地として使用していました。激しい戦闘の末、日本軍が要塞を制圧し、戦争の結果として日本が勝利を収めました。この戦いにおいて、多くの犠牲者が出たことは避けられませんでした。

1943年 – ニューギニアのポートモレスビー作戦

第二次世界大戦中、日本軍と連合国軍の激しい戦闘がニューギニアで行われました。ブナでの戦いでは、日本軍が壊滅的な状況に追い込まれ、連合国軍が勝利を収めました。この戦いにおいて、日本軍の指導者たちが壮烈な最期を迎える様子が物語られています。彼らの最後の言葉や行動は、当時の苦しい状況を物語るものとなっています。

1954年 – 二重橋事件

日本の歴史においても忘れてはならないのが、1954年に発生した二重橋事件です。皇居一般参賀者が二重橋上で将棋倒しになり、16名が死亡し、56名が重軽傷を負いました。この事件は、安全対策の必要性や大規模な行事の際のリスク管理について考えさせられる出来事でした。

1月2日に起きたこれらの出来事は、それぞれが時代背景や国際情勢に影響され、歴史に深く刻まれた瞬間でした。これらの出来事を振り返ることで、過去の教訓を引き継ぎ、未来に向けて学びを得ることができるでしょう。