1月19日
20240119金曜日 旧暦12月9日 友引 壬午みずのえうまジンゴ 月齢 7.6
年末まであと346日
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1月19日の出来事
1948年 – 出口王仁三郎、宗教家(* 1871年)逝去77歳。
1952年 – フィリピン・モンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所で、BC級戦犯とされた元日本軍兵士17名の死刑が突如執行される。なお、この出来事がきっかけとなり、渡辺はま子のヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」が作られた[5]。
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1948年 – 出口王仁三郎、宗教家(* 1871年)逝去77歳。
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年旧7月12日) – 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。
概要
出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる[1][注釈 1]。強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。その一方で奔放な言動により敵対者から多くの非難も浴びる[3]。評価は現在でも定まっていない[4]。「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された[5]。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも病により死去した。その思想と布教方法は戦後の新宗教に大きな影響を与えた[6]。
敗戦後には、朝日新聞の記者に「日本の上層部はわれよしで、自分達が一番正しく、えらいと思うから戦争がおきた。諸外国もわれよしを改めぬ限り戦争は絶えない」と述べている[205]。天皇の神格化や国家神道については「殊に日本の官国幣社が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違ひの根本だった」と厳しく批判した[206]。
1946年(昭和21年)2月、教団活動を「愛善苑」として新発足させた[207]。教団経営や各地への巡教、返還された綾部・亀岡の再建に尽力したが、8月に脳出血で倒れた[208]。以後健康を取り戻すことなく、1948年(昭和23年)1月19日午前7時55分に逝去した[209]。満76歳没。綾部の天王平に歴代教主と共に埋葬されている[210]。
王仁三郎は度々警察に拘留されたが、第一次大本事件や蒙古遭難事件では126日間拘束されている[396]。大正10年2月12日に拘束され、蒙古事件後の7月26日に収監されるまで1260日であり、このため大本事件をヨハネの黙示録になぞらえる珍説もある[397]。ただし王仁三郎も霊界物語第36巻余白歌で「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」と詠い、別の著作でも獣の数字について言及した[398]。1942年8月7日に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と家族に語った[399]。同日、米軍はガダルカナル島に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まる[400]。尋ねてくる者に様々な予言を行った[401]。「昭和暦十八年の元旦は 五十年準備の充てる日にぞある/昭和十八年の年より三千年の いよいよ経綸の幕は上がれり」と詠い、早くから日本の敗戦を予言[402]。「大本は日本の雛型、日本は世界の雛型。日本がやられて武装解除されれば、いずれ世界も武装解除される」と述べる[403]。広島市への原爆投下やソ連軍の満州侵攻、千島列島や台湾の領土喪失も警告[404]、鈴木貫太郎総理大臣について「日本は鈴木野(すすきの)になる」「日本はなごうは鈴(つづ)木貫太郎(かんだろう)」と冗談にした[405]。予言が的中したことに感嘆する者も多かったが、弟子に「ワシは、神さんの予言が中らぬよう中らぬようと努めてきたのやが……」と嘆息している[406]。本当の火の雨はこれからとも語る[407]。側近によれば、次の大戦は中東が導火線になる宗教戦争と告げ「原爆を投下させない為に死後も活動する」と述べた[408]。王仁三郎の危機的予言は「みろくの世」という理想世界が出現するにあたって起きる大変動(大峠)を比喩したものであり、王仁三郎の活動により、大難(ノアの洪水)のような大災害を、小難(飢饉・病気・戦争)という人類の力が及ぶものに祀り変えて乗り切るという終末と再生観である[409]。
1952年 – フィリピン・モンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所で、BC級戦犯とされた元日本軍兵士17名の死刑が突如執行される。なお、この出来事がきっかけとなり、渡辺はま子のヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」が作られた[5]。
戦後
第二次世界大戦後、ニュー・ビリビッド刑務所は、日本人戦犯者の収容施設となり、106名が収容されて17名がここで処刑された[14]。
当時、ニュー・ビリビッド刑務所には、1949年に教誨師として日本から派遣された僧、加賀尾秀忍が囚人とともに生活していた[15]。1951年1月19日に、突如14名の死刑囚が処刑された「中村ケース」に接した加賀尾は、以降、収容者たちの助命嘆願の活動を展開し[15]、これを契機として収容者が作った「あゝモンテンルパの夜は更けて」が渡辺はま子の歌唱で広く知られるようになり、遂には1953年6月27日にエルピディオ・キリノ大統領による恩赦がなされ、収容者全員が帰国する運びとなった[16]。
その後、敷地の一角に日本人戦犯の慰霊墓地が設けられ、併せて日本庭園が整備されたが、これは岸信介の意向で「フィリピンの靖国神社」とすることを意図したものであったという[14]。
チャットgpt先生の1月19日のエッセイ
1月19日は、過去にさまざまな重要な出来事が起こった日です。その中で、1948年には新宗教「大本」の創設者である出口王仁三郎が逝去したことが挙げられます。彼は「聖師」として知られ、強烈な個性やカリスマ性を持ち、大本を日本有数の宗教団体に発展させました。彼の思想と布教方法は、戦後の新宗教に大きな影響を与えました。
出口王仁三郎は、敗戦後に政府の弾圧を受け、大本も危険視されました。彼は戦争の原因について独自の見解を持ち、「日本の官国幣社が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違ひの根本だった」と厳しく批判しました。彼の予言や思想は、当時の社会に大きな反響を呼び起こしました。
また、1952年のこの日には、フィリピン・モンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所で、BC級戦犯とされた元日本軍兵士17名の死刑が突如執行されました。この出来事がきっかけとなり、後に渡辺はま子のヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」が生まれました。戦後の時代における戦犯裁判やその影響が、音楽や文化にも深く刻まれた瞬間でした。
この日はまた、戦後の復興や新たな宗教運動、国際的な歴史的出来事と結びついています。それぞれの出来事が時代の流れに与えた影響を考えると、1月19日は歴史的に注目すべき日と言えるでしょう。