1月18日
20240118木曜日 旧暦12月8日 先勝 辛巳かのとみ シンシ 冬土用入 月齢 6.6
上弦
年末まであと347日
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8818%E6%97%A5
1月18日の出来事
1944年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: レニングラードのドイツ軍の包囲をソ連軍が解除し、レニングラード包囲戦が終結。
1977年 – グランヴィル鉄道事故が発生、死者83名、重軽傷者210名以上の大惨事に。
1984年 – 三井有明鉱火災事故: 福岡県の三井三池鉱業所の有明鉱坑内で火災が発生。旧式ベルトコンベヤーの整備不良から発火し、一酸化炭素中毒で83人死亡、負傷者十数人を出した[5]。
2017年 – イタリア、ファリンドラにあるリゾートホテルに雪崩が直撃して29人が死亡[8]。
—————————————————————
1944年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: レニングラードのドイツ軍の包囲をソ連軍が解除し、レニングラード包囲戦が終結。
レニングラード包囲戦(レニングラードほういせん、ロシア語:блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 – 1944年1月27日)は、第二次世界大戦の独ソ戦における戦闘のひとつ。
ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近く(872日[2])にわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。ソ連政府の発表では市民の死者は約63万人だが実数は100万人を超えるとも言われる。また死因の97%は餓死と言われている[3][4][5]。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、スターリンの後継者の有力候補の一人とされていたジダーノフであった。
軍人
戦死 332,059
行方不明 111,142
市民
ソ連の発表67万人、一説では
100万人以上[1]
飢餓の発生
連絡線の遮断によってレニングラードへの補給はほぼ途絶した。9月2日、市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められた。9月8日の空襲ではバターエフ倉庫に貯蔵してあった大量の穀類や砂糖が焼失した。9月12日には、食料の残量は以下の通りと試算された。
穀類・小麦粉 35日分
えん麦・粉物 30日分
肉類・家畜 33日分
油脂 45日分
砂糖・菓子類 60日分
同日、配給の再度の削減が実施され、肉体労働者は1日にパン500g、労働者と子供は300g、その他の市民は250gと定められた。陸軍とバルチック艦隊は備蓄を有していたが十分ではなかった。ラドガ湖に配備されていた河川艦隊は装備も十分ではなく、しばしばドイツ軍の空襲を受け、9月には穀物輸送船が撃沈された。輸送船は後に引き上げられ、濡れた穀物もパンを焼くのに使われた。小麦粉を使い果たした後は、セルロースや綿の実の絞りかすが食用に供された。馬の飼料用のえん麦も食用に回された。肉類も底をつき、内臓や皮革が料理された。市内のあらゆる空き地には野菜が植えられた。市内に残った赤軍の状況も深刻だった。モスクワ防衛に呼ばれたジューコフは(10月7日にモスクワ到着)、フェジュニンスキー少将を後任とした。しかしフェジュニンスキーは後任を辞退し、ホージン中将を推薦した。将官達は封鎖されたレニングラードの指揮をとることに乗り気ではなかった。ジダーノフはヴォロノフ砲兵大将に司令官就任を要請したが、ヴォロノフは国防人民委員代理の職務を理由に辞退した。やむを得ずジダーノフは、ホージン中将に話をもっていった。ホージンも第54軍の指揮を理由に、辞退したが、スタフカはホージンを正式に後任とした。ネフスキー橋頭保を守るネヴァ作戦集団は第54軍との合流を命じられたが、支援を欠いた渡河作戦はドイツ軍砲兵隊の恰好の餌食となり、一方的に殺戮された。その後も封鎖の打破を試みる、ネヴァ河での攻勢はことごとく失敗に終わり、死体の山が積み上げられた。相次ぐ敗戦と食料事情の悪化は規律を再び低下させ、市内では兵士の逃亡や盗難が相次いだ。ジダーノフもホージンもなにも有効な手をうてなかった。
軍人的資質に欠けるジダーノフはジューコフの始めた欠陥のある戦術を継続し、ネフスキー橋頭保から封鎖を突破しようと兵力を送るが大半が死傷し、10月に橋頭保に渡った看護師エレーナ・スヴェトコーワが手当てし、更に適切な治療のためにネヴァ川の向こう岸に戻そうとした重症者の内、幸運にも戻れた少数者の一人に未来のロシア大統領ウラジーミル・プーチンの父親(第86歩兵師団第330連隊所属)がいた。[12]。
9月末には石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木であった。10月8日には市の北方にある森林での木材の伐採が計画されたが、機材も作業施設もなく、10月24日までに木材伐採計画の1%が実施できたのみであった。電力供給も不足し、電力の使用は軍の司令部や地域委員会、防空拠点などを除き厳禁とされた。大部分の工場が操業を停止し、11月には全ての公共交通機関が運行を停止した。1942年の春には一部の路面電車が運行を再開したが、トロリーバスとバスは終戦まで再開しなかった。
冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。ターニャ・サヴィチェワという当時12歳の少女は、12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している(ターニャの日記)。レニングラードの街角は死体で溢れた。やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化し、人肉を含む食品を売る店まで現れた[13]。
影響と戦争中の役割
独ソ戦の開始から数週間でのソ連軍の敗退は連合国の人々を意気消沈させたが、レニングラードの抵抗は人々を勇気付けた。レニングラードは1945年にスターリンによって英雄都市の称号を与えられた。
包囲戦の犠牲者数については諸説がある。戦後のソ連政府による公式発表は死者67万人というものであったが、他の研究では死者は70万人から150万人、多数説としては110万人程度という推計値が示されている。犠牲者の多くはピスカリョフ記念墓地に埋葬された。
包囲戦の記憶は市民の心に暗い影を落とした。市民はそれまでレニングラードが文化都市であることを誇りとしてきた。図書館の蔵書や18世紀の骨董家具を燃やすか、それとも凍え死ぬかという選択は辛いものであった。一方、レニングラードが900日近くにわたって抵抗を続け、「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」ことは市民の新たな誇りともなった。
今日でもサンクトペテルブルク市内では、ドイツ軍による砲撃を避けるために設置された標識が修復され保存されている。
一方でレニングラードはドイツ軍の包囲下で市民が餓死する中、市内の兵器工場群をフル稼働させ大量の兵器を生産し兵器廠として機能し続けた。工場から出荷された兵器はレニングラード守備軍にはまわされず各戦線のソ連軍に供給された。1941年7月~12月だけで戦車500両、装甲車600両、野砲2400門、機関銃1万挺、砲弾300万発、ロケット砲3万発を出荷し独ソ戦の勝利に大きな貢献をはたした。
1977年 – グランヴィル鉄道事故が発生、死者83名、重軽傷者210名以上の大惨事に。
グランヴィル鉄道事故(グランヴィルてつどうじこ 英語:Granville railway disasterまたはGranville train disaster)は、1977年1月18日、ニューサウスウェールズ州グランヴィル駅 (Granville railway station) 付近において発生した鉄道事故で、オーストラリア最大の鉄道事故である。
この事故は、シティレール (CityRail) ウェスタン・ライン (Western railway line, Sydney) の通勤列車がグランヴィル駅直前で脱線し数百メートル暴走、コンクリート製跨線橋の橋脚をなぎ倒して停止した所へ橋脚を失った橋が自重に耐え切れず落下して車両を押し潰し、死者83人、重軽傷者210人以上を出す大惨事となった。
1984年 – 三井有明鉱火災事故: 福岡県の三井三池鉱業所の有明鉱坑内で火災が発生。旧式ベルトコンベヤーの整備不良から発火し、一酸化炭素中毒で83人死亡、負傷者十数人を出した[5]。
2017年 – イタリア、ファリンドラにあるリゾートホテルに雪崩が直撃して29人が死亡[8]。
チャットgpt先生の1月18日のエッセイ
1月18日に起きた歴史的な出来事を振り返ると、特に1944年に終結したレニングラード包囲戦が顕著です。この包囲戦は、独ソ戦の中での重要な出来事で、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)がドイツ軍による長期にわたる包囲に耐え、市民が飢えに苦しみながらも最終的に包囲を解除する勇気ある抵抗を見せた出来事です。
包囲戦中、市民は飢餓や寒さに苦しみ、食糧や生活必需品の不足から生じた困難な状況に直面しました。多くの人々が餓死し、死者の数は正確には分からないものの、数十万人から百万人以上とも言われています。市民は食糧不足に対処するために様々な手段を講じ、最悪の状況においては人肉を食べざるを得ないほどの極限状態に陥りました。
包囲戦が終結した際、レニングラードはスターリンによって英雄都市とされ、その抵抗の精神は後の時代にも称賛されました。戦争の中で困難な状況に立ち向かう市民の勇気と忍耐力は、後の時代においても記憶されています。
また、他にも1月18日に起きた出来事として、1977年のグランヴィル鉄道事故や1984年の三井有明鉱火災事故、2017年のイタリアでの雪崩が直撃したリゾートホテルでの死亡事件が挙げられています。これらの出来事も人々に深い影響を与え、安全に対する意識や防災対策の必要性を考えさせられる出来事でした。