kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月15日   1919ボストン糖蜜災害、ほか写真wikipedia事故後の都市

1月15日

20260115木曜日旧暦11月27日先勝(己丑つちのとうしキチュウ)月齢 26

乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 己丑つちのとうし日 年末まであと350日

吉方位 陽遁日 己丑つちのとうし日

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8815%E6%97%A5

1月15日の出来事
69年 – 四皇帝の年: オトがローマ帝国皇帝ガルバと息子のピソを暗殺し、自ら皇帝に即位。
1181年(治承4年12月28日) – 南都焼討。平重衡らが東大寺・興福寺などの仏教寺院を焼き払う[1]。
1919年 – ボストン糖蜜災害。ピュリティ・ディスティリング・カンパニー (英: Purity Distilling Company、直訳すると「純粋蒸留社」) の敷地にあった870万リットル[1]の糖蜜を詰めた巨大な貯槽が破裂した。これにより糖蜜の波が推定で時速56キロメートルの速さで街路を襲い、21名が死亡、約150名が負傷した[2]。
1940年 – 静岡大火: 静岡市(現在の静岡市葵区、駿河区)で火災が発生。焼失家屋5,000棟以上、2人が死亡、770人以上が負傷した[7]。
1947年 – ブラック・ダリア事件: ロサンゼルスで「ブラック・ダリア」ことエリザベス・ショートの惨殺死体が発見される。
1974年 – 長崎県・三菱石炭鉱業高島鉱業所の端島鉱(軍艦島)が閉山[9]。
1993年 – 北海道釧路沖地震: 釧路沖を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生し、釧路市で震度6を観測。この地震で2人が死亡、966人が負傷し、5,000棟以上の家屋が被災した。

2001年 – ラリー・サンガーとジミー・ウェールズによってウィキペディアが設立される。


2016年 – 軽井沢スキーバス転落事故が発生し、15人が死亡[11]。

2023年 – イエティ航空691便着陸失敗事故。死亡72人(全員)。

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69年 – 四皇帝の年: オトがローマ帝国皇帝ガルバと息子のピソを暗殺し、自ら皇帝に即位。

オトは皇帝ネロの第一の親友で、若い頃からの遊び仲間であった。ポッパエア・サビナの夫であったが、58年にネロがポッパエアとの結婚を望んだため離婚した。同じ年、ネロはオトをルシタニア(現在のポルトガル)総督とし、ローマから遠ざけた。総督として真面目に仕事に打ち込み、善政を敷いた。そのため属州民に人気があった。

皇帝就任
ガルバとは親戚関係にあり、その叛乱と即位を支持した。このためオトは、子のないガルバが後継者に自分を選ぶものと期待していたが、69年1月、ガルバはルキウス・カルプルニウス・ピソ・リキニアヌス(英語版)を後継者に指名した。期待を裏切られたオトは、2人の暗殺を計画し、23人のプラエトリアニを買収した。ガルバがピソを後継者に指名してから5日後、2人は暗殺され、オトは帝位についた。

最期
しかし、ガルバの治世末期にゲルマニアで叛乱したアウルス・ウィテッリウスはこれを認めず、なお兵を挙げてローマに迫った。オトはドナウ川付近に駐留していた軍団を呼び戻すことを図るなどウィテッリウスに対抗を図ったものの、ウィテッリウスはクレモナ近くで、オトの軍を破った。まだ挽回の機会はあったものの、敗戦の報を受けたオトは自殺し、短い治世を終えた。後に歴史家タキトゥスは、きわめて早い段階で自死したことが市民間の流血を避けたとして、オトの死に様に高い評価を与えている。

1181年(治承4年12月28日)- 南都焼討。平重衡らが東大寺・興福寺などの仏教寺院を焼き払う[1]。

南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。

1919年 – ボストン糖蜜災害。ピュリティ・ディスティリング・カンパニー (英: Purity Distilling Company、直訳すると「純粋蒸留社」) の敷地にあった870万リットル[1]の糖蜜を詰めた巨大な貯槽が破裂した。これにより糖蜜の波が推定で時速56キロメートルの速さで街路を襲い、21名が死亡、約150名が負傷した[2]。

ボストン糖蜜災害(ボストンとうみつさいがい、英: Boston Molasses Disaster、または「糖蜜大洪水」、英: Great Molasses Flood, Great Boston Molasses Flood)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの港湾部ノースエンド(英語版)で1919年1月15日に発生した事故である。ピュリティ・ディスティリング・カンパニー (英: Purity Distilling Company、直訳すると「純粋蒸留社」) の敷地にあった870万リットル[1]の糖蜜を詰めた巨大な貯槽が破裂した。これにより糖蜜の波が推定で時速56キロメートルの速さで街路を襲い、21名が死亡、約150名が負傷した[2]。この事故は現地の伝説となり、事件から数十年経過した後でも、ボストンの住民は夏の暑い日には糖蜜の匂いがすると主張していた[2][3]。

著述家のスティーブン・プレオ (英: Stephen Puleo) は著書でボストン・ポスト(英語版)の次の報道を引用した。

腰ほどの高さの糖蜜が通りを覆い尽くし、残骸の周りで渦巻き泡立った。……あちらこちらにもがく生き物の姿があったが、それが動物か人間かは区別ができなかった。そこに生き物がいると教えてくれるのは、粘液の海の中をのたうつときに生じる隆起だけだった。……ハエ取り紙にたくさんくっついたハエのように馬が死んでいた。馬はもがけばもがくほど、糖蜜の深みにはまっていた。人間も馬と同じように男女問わず苦しんでいた[4]:98。

1940年 – 静岡大火: 静岡市(現在の静岡市葵区、駿河区)で火災が発生。焼失家屋5,000棟以上、2人が死亡、770人以上が負傷した[7]。
1947年 – ブラック・ダリア事件: ロサンゼルスで「ブラック・ダリア」ことエリザベス・ショートの惨殺死体が発見される。

エリザベス・ショート(英: Elizabeth Short、1924年7月29日 – 1947年1月14日または15日)という女性がカリフォルニア州ロサンゼルス近辺のレイマート・パーク(英語版)で遺体となって発見された。ショートの遺体は腰の部分で両断されるという痛ましい状態だった。この惨状から事件は非常に話題となり、ショートは死後に「ブラック・ダリア」という呼び名で知られるようになった。

ショートはボストン出身で、幼少の頃はマサチューセッツ州メドフォードやフロリダに住んでいた。後に父の住むカリフォルニアへ転居した。一般にショートは女優志望だったことが知られているが、ロサンゼルスで過ごしていた間に何らかの女優の仕事をしていたかは不明である。ショートは死後、「ブラック・ダリア」というニックネームで呼ばれるようになるが、これは当時の新聞は特に陰惨な犯罪にしばしばニックネームを付けていたためである。ニックネームは記者がカリフォルニア州ロングビーチの薬局の店主から聞いた話に由来するらしく、薬局の男性客がショートのことをそのようなニックネームで呼んでいたという。1946年4月に公開されたヴェロニカ・レイクとアラン・ラッドが主演のフィルム・ノワールThe Blue Dahlia(邦題:『青い戦慄』)のもじりであると考えられる。1947年1月15日にショートの遺体が発見されてから、ロサンゼルス市警察は大規模な捜査を開始した。被疑者は150人以上いたが、誰も逮捕することはなかった。

事件そのものや事件にまつわる様々なことが長く人々の注目を惹き付け、様々な説が生まれている。数多くの書籍や映画がショートの生涯と死を元としている。ショート殺害事件はアメリカの歴史上、最も有名な未解決殺人事件の一つであり、ロサンゼルス郡で最も昔に起こった未解決事件の一つでもあることから、頻繁に引き合いに出される[2]。歴史家からは、第二次世界大戦後のアメリカで国中の関心を集めた最初の主要な犯罪の一つとして評されている[注釈 1]。

1974年 – 長崎県・三菱石炭鉱業高島鉱業所の端島鉱(軍艦島)が閉山[9]。
1993年 – 北海道釧路沖地震: 釧路沖を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生し、釧路市で震度6を観測。この地震で2人が死亡、966人が負傷し、5,000棟以上の家屋が被災した。
2016年 – 軽井沢スキーバス転落事故が発生し、15人が死亡[11]。

軽井沢スキーバス転落事故(かるいざわスキーバスてんらくじこ)は、2016年(平成28年)1月15日に長野県北佐久郡軽井沢町で発生した交通事故である。

国道18号碓氷バイパスの入山峠付近(軽井沢駅から南に約2 kmの群馬県・長野県境付近)で、定員45人の大型貸切バスがガードレールをなぎ倒して道路脇に転落し、乗員・乗客41人(運転手2人、乗客39人)中15人が死亡(うち乗員は2人とも死亡[4])、生存者も全員が負傷する事態となった[5][6][7]。

2023年 – イエティ航空691便着陸失敗事故。死亡72人(全員)。

チャットgpt先生の1月15日のエッセイ

1月15日という日 ― 炎と決断、そして記憶の層

1月15日は、暦の上では年のまだ浅い地点にありながら、人類史の中では幾度も「決定的な瞬間」を刻んできた日である。先勝、月齢26。満ちていたものが静かに欠けていくこの時期は、栄華や安定が崩れ、次の局面へと押し出される力を象徴しているかのようだ。

西暦69年、ローマではオトが皇帝ガルバとその後継者ピソを暗殺し、自ら帝位に就いた。彼の行動は野心と裏切りの物語として語られがちだが、その最期は異なる光を放つ。敗北を悟ったオトは、さらなる内戦と市民の流血を避けるために自ら命を絶った。権力を奪うために剣を取り、権力を終わらせるために剣を捨てたこの選択は、「為政者の責任とは何か」という問いを、約二千年後の私たちにも投げかけている。

同じく1月15日、1181年の南都焼討では、東大寺や興福寺といった精神的支柱が炎に包まれた。信仰と権力が激しく衝突した結果、文化と祈りの場が戦火に消えたこの出来事は、武力が一度暴走すれば、守るべきものさえ容易に破壊してしまう現実を示している。炎は建物だけでなく、人々の心に刻まれた「失われた時間」そのものを焼き尽くした。

近代に目を向ければ、1919年のボストン糖蜜災害がある。甘いはずの糖蜜が街を襲い、人と馬をのみ込んだこの事故は、技術と経済の発展が必ずしも安全を保証しないことを象徴している。災害の後、夏の日に漂うという糖蜜の匂いは、単なる記憶ではなく、都市が抱え続ける無言の教訓なのだろう。

1月15日はまた、多くの悲劇的な「未解決」や「突然の断絶」を伴う。ブラック・ダリア事件、釧路沖地震、軽井沢スキーバス事故、航空機事故――これらは人の悪意、自然の猛威、あるいは人為的な油断が引き起こしたものであり、原因は異なっても共通しているのは「日常が一瞬で崩れる」という事実である。

その一方で、2001年のこの日、ウィキペディアが誕生した。破壊や死の記憶が重なる1月15日に、人類の知を集積し、共有する試みが始まったことは象徴的だ。忘却に抗い、出来事を記録し、意味を問い続ける営みこそが、悲劇の連鎖を断ち切るための静かな抵抗なのかもしれない。

1月15日は、英雄的な決断も、取り返しのつかない破壊も、そして未来への小さな希望も同時に内包する日である。年の始まりに近いこの日が私たちに教えるのは、「歴史は遠い過去ではなく、今日の選択の延長線上にある」ということだ。欠けゆく月の下で、私たちは何を手放し、何を次の満ちへとつなげていくのか――1月15日は、静かにその問いを突きつけている。