kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月14日 1936北海道砂川鉱山爆発、1959南極大陸で1年間置き去りのタロとジロ生存 ほか 写真wikipediaタロとジロ銅像

1月14日

20240114日曜日 先負 丁丑ひのとうし テイチュウ 月齢 2.6

年末まであと351日

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8814%E6%97%A5

1月14日の出来事

1936年 – 北海道上砂川町の三井鉱山上砂川炭鉱でガス爆発事故。死者20人、生死不明1人、重軽傷者18人[2]。

1959年 – 南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬タロとジロの生存が確認される[3]。

1969年 – アメリカ海軍の航空母艦「エンタープライズ」の艦載機に搭載されていたズーニー・ロケット弾が爆発、27名の死者を出す。

1978年 – マグニチュード7.0の伊豆大島近海の地震発生。死者25人。

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1936年 – 北海道上砂川町の三井鉱山上砂川炭鉱でガス爆発事故。死者20人、生死不明1人、重軽傷者18人[2]。

1959年 – 南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬タロとジロの生存が確認される[3]。

タロ(1955年(昭和30年)10月 – 1970年(昭和45年)8月11日)とジロ(1955年(昭和30年)10月 – 1960年(昭和35年)7月9日)は日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟である。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。

生い立ち

樺太犬訓練記念碑(2003年撮影、稚内公園。ただしモデルはタロとジロとの父親違いの兄弟)

1956年(昭和31年)1月、稚内市にて風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟だった。名前は当時南極観測隊用に樺太犬を集めていた犬飼哲夫北海道大学教授によって名付けられた。この名前は白瀬矗の南極探検の際、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(「タロウとジロウ」[1]、あるいは「タローとジロー」とも)にちなむ。

14日、天候はますます悪化し、バ号自体の氷海脱出も危うくなった。午前10時、永田隊長から、一旦外洋に出てから天候が回復しだい再進入する計画なので3名は宗谷に戻るように指示したが、3名は、第1次隊が残した食料と樺太犬がいるので再進入の計画があるならばこのまま越冬準備を続けたい、万一再進入できなくても3名での越冬も十分可能であることを強く訴えた。

正午、隊長からは次のような最後通告が戻ってきた。「3名を収容して外洋に出るのはバ号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性は後1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので野犬化したり、共食いしたりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」[2]

バ号艦長の命令では従うしかなかった3人は、南極生まれの子犬8頭とその母犬のシロ子はなんとしても連れ帰ることにした。15頭の犬の食料2か月分を分配した後、迎えに来た昭和号(DH-2)に子犬8頭とシロ子と共に昭和号に乗り込んだが、荷重超過で機は離陸できなかった。不時着用の燃料と食料を降ろすという森松整備士の機転によって帰船することができたが、15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。

奇跡の生存

タロとジロをデザインした硬貨

1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、個体の判別がつかなかった。急遽、第1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、北村は2頭の中の1頭の前足の先が白いのを認め、「ジロ」ではないかと考え名前を呼んだところ反応して尻尾を振った。もう1頭も「タロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである[3]。

基地には7頭の犬が首輪につながれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でアザラシに襲いかかる所や食料を貯蔵する所を目撃している。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったと言われる。

しかしその後、北村は、犬たちはペンギンを襲うことはあっても食べることはまずなかったこと、アザラシの糞は好んで食べたが、アザラシを襲う際に海水に落ちる危険があること、いずれにせよ、犬たちが犬用食料(第2次隊が給餌しやすいよう開梱した状態で残されており、容易に食べられる状態であったにもかかわらず、全く手がつけられていなかった)よりもそれらを優先したとは考えがたいことを指摘し、これらの説を否定している[4]。北村はその上で、食料の候補として、海水に浸かったため天然冷凍庫内に放棄されていた人間用食料(人間にとっては臭くて食べられたものではなかったが、犬は好んで食べたという)、第1次隊が犬ゾリ調査旅行を行った際にデポに残した食料、調査旅行の際に発見されたクジラの死骸、の3つを挙げている[5]。

タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭をたたえる歌「タロー・ジローのカラフト犬」(しばざきそうすけ作詞・豊田稔作曲、三浦尚子歌)、「よかったよかったタロー ジロー」(小林純一作詞・冨田勲作曲、小坂一也・本間千代子・みすず児童合唱団歌)までもが作られたほどである。さらに日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの東京タワーに15頭の樺太犬記念像(製作:安藤士〈忠犬ハチ公像の彫刻家〉、構成:斎藤弘山〈斎藤弘吉〉)が設置された。

タロとジロの生還から9年後の1968年、昭和基地のそばの解けた雪の中から、1匹の樺太犬の死骸が見つかった。灰色で短毛という特徴から、行方不明6匹のうち「リキ」と思われた。7歳と、最年長だったリキは、第1次越冬中から、幼かったタロとジロに自分の餌を与え、実の親のように片時も離れず2匹の面倒を見ていた。タロとジロの生存には、リキの存在があったのではないかと北村は推測している[6]。

第3次隊にはペットとして樺太犬の子犬トチ、アク、ミヤが同行していたが、タロとジロが生存していたため牡のトチ、アクはソリ曳き犬として育てられた。第4次越冬隊ではさらに11頭の樺太犬とケープタウンでベルギー隊からもらったグリーンランド・ハスキーの子犬が参加することとなった。この樺太犬の中には第1次越冬中に昭和基地で生まれた犬も含まれた。

2013年に国立極地研究所(立川市)へ移転。

1956年(昭和31年)、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定される。当時の北海道には約1,000頭の樺太犬がいたが、このうち犬ぞりに適した犬は40から50頭程度に過ぎなかった。この中から3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で樺太出身の後藤直太郎によって訓練が行われた。このうちサブロは訓練中に病死している。

1969年 – アメリカ海軍の航空母艦「エンタープライズ」の艦載機に搭載されていたズーニー・ロケット弾が爆発、27名の死者を出す。

1978年 – マグニチュード7.0の伊豆大島近海の地震発生。死者25人。

チャットgpt先生の1月14日のエッセイ

1月14日の出来事と奇跡の生存

1月14日には様々な出来事が歴史に刻まれています。その中で特に注目すべき出来事の一つは、南極大陸で生き延びたカラフト犬、タロとジロの生存です。1959年に、彼らは1年間置き去りにされながらも奇跡的に生還し、感動と驚きを世界に与えました。

タロとジロは樺太犬として生まれ、南極地域観測隊に同行した兄弟でした。1956年に南極観測隊が樺太犬による犬ぞりの使用を決定し、タロとジロもその中で選ばれた23頭の犬の中の一員でした。彼らは南極での冒険に向けて訓練を受け、寒冷地での生存能力を身につけました。

彼らの冒険は、1958年に南極基地で行われた第3次越冬隊の任務が終了し、帰船する際の出来事から始まります。天候が悪化し、船が氷海から脱出することが困難となった時、タロとジロが含まれる15頭の犬は基地に取り残されることになりました。隊員は外洋に出て再び基地に戻る計画を立て、犬たちを船に乗せるよう命じられました。しかし、犬たちを鎖につなぎ、安全な帰船を優先するよう指示がありました。

船が外洋に出発すると、犬たちは基地に取り残されました。彼らは寒さや飢えと戦いながら、生き抜くことになります。彼らがどのようにして生存したかは不明ですが、南極の過酷な環境で、アザラシやペンギンの糞、そして恐らくは争いごとなどを通じて生き延びたと考えられます。

そして奇跡が起きました。1969年1月14日、南極基地に向かった第3次越冬隊のヘリコプターから、タロとジロの生存が確認されたのです。彼らは生きており、救助されることとなりました。彼らの生存は日本中に感動を与え、歌や記念像まで作られました。彼らの奇跡の生還は、忍耐と団結の象徴となりました。

1月14日はまた、歴史的な出来事も起こっています。1936年には北海道で炭鉱のガス爆発事故が発生し、20人が亡くなる悲劇がありました。そして、1969年にはアメリカ海軍の航空母艦「エンタープライズ」でズーニー・ロケット弾が爆発し、27人が犠牲になりました。さらに1978年には、伊豆大島近海でマグニチュード7.0の地震が発生し、25人が犠牲になりました。

これらの出来事は、人間の生命がどれほど脆いものであるかを示しています。1月14日には歓喜と悲劇が交錯し、生命の尊さや奇跡の可能性を考えさせられる日となりました。