kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月1日 1946昭和天皇の人間宣言、1949硫黄島の最後の残留兵投降、ほか 写真wikipedia火炎放射シャ-マン戦車

1月1日

20240101月曜日 旧暦11月20日 赤口 甲子きのえね コウシ元日 月齢 19.1

年末まであと364日(閏年では365日)ある。

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1月1日の出来事

キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる[1]。

1946年 – 昭和天皇が戦後最初の年頭詔書「新日本建設に関する詔書」で自己の神格を否定(人間宣言)。

1949年 – 硫黄島の戦いの残留日本兵2人が米軍に投降。うち1人が自決。

1956年 – 弥彦神社事件。新潟県彌彦神社の新春餅まきに初詣客が殺到し、124人が圧死。

1959年 – 和歌山県高野町で初詣客を乗せた南海バスが県道から転落する事故。死者9人、重軽傷者38人[4]。

1961年 – 岩手県松尾村(現・八幡平市)の松尾鉱山小学校で、映画鑑賞会へ向かう小学生などが将棋倒しとなった。死亡10人、重軽傷者21人[5]。

1975年 – 青木湖バス転落事故: 長野県大町市の青木湖で、近くのホテルのスキー客送迎バスが湖に転落、24人が死亡。

2007年 – アダム航空574便墜落事故。102人死亡。

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キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる[1]。

1946年 – 昭和天皇が戦後最初の年頭詔書「新日本建設に関する詔書」で自己の神格を否定(人間宣言)。

人間宣言(にんげんせんげん)は、連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に昭和天皇が発した詔書の俗称。新日本建設に関する詔書(しんにっぽんけんせつにかんするしょうしょ)。

正式名称は「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(しんねんニあたリちかいヲあらたニシテこくうんヲひらカントほっスこくみんハちんトこころヲいつニシテこノたいぎょうヲじょうじゅセンコトヲこいねがフ)である。

この詔書がGHQ主導によるものか、昭和天皇主導によるものかという激しい議論が研究者の間で起こった。その後の1990年(平成2年)に前掲の『側近日誌』が刊行され、GHQ主導によるものとしてほぼ決着した。

また、昭和天皇が1977年(昭和52年)になって詔書の目的について発言したのは、人間宣言をした昭和天皇を厳しく非難し[注 1]、1970年(昭和45年)に自決した三島由紀夫へ意を及ぼしたためではないかとする指摘がある[23]。

1949年 – 硫黄島の戦いの残留日本兵2人が米軍に投降。うち1人が自決。

硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 – 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。

アメリカ国内で激しいバッシングにさらされたニミッツは、あまりにも早い時期での勝利宣言とアメリカ国旗掲揚式開催を命じた。ターナーやスミスといった司令官が列席するなかでニミッツの「これらの島々の日本帝国の政府のすべての権限は、ここに停止された。軍政長官を兼ねる小官が全ての権限を掌握し、指揮下にある軍司令官によって実施される」という宣言が代読されたが、まだ「クッシュマンズ・ポケット」や「ミート・グラインダー」などでは激戦が続いており、砲撃音などで式典が一時中断することもあった。司令官のスミスは感傷のあまり涙ぐみながら「ここが一番骨が折れたな」と副官に語り掛けていたが[210]、列席していた関係者は砲撃音や銃声で式典が中断するたびに「この島を確保しているのなら、この銃声はどこから聞こえてるんだ?」と皮肉を言い合った[211]。あまりにも早い勝利宣言を聞いた前線で戦っている海兵隊員は「(ニミッツ)提督は何の冗談を言ってるんだ?」と呆れたという[212]。

3月15日には、アメリカ国内のバッシングを和らげようと、硫黄島にいたターナーとスミスは記者会見で「アメリカ軍の損害は日本軍の1/5程度である」とする過小な損害と過大な戦果公表を行ったが、正確な死傷者数を知りたいという世論に対して、3月16日にニミッツはやむなく「3月6日までに、戦死者4,189人、行方不明441人、負傷者15,308人」と公表した。しかし、この数字も実際に受けた損害よりは過小であった[146]。さらにニミッツは特別の声明も出した[213]。

硫黄島の戦いは、アメリカ海兵隊の歴史始まって以来、168年で最も激しい戦いであった。 硫黄島の戦いに参加したアメリカ人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。[214]

硫黄島でのアメリカ軍の甚大な損失に対し、アメリカ本国ではこれまでには見られなかった反響が見られた。硫黄島の戦いよりは遙かに大規模であったノルマンディー上陸作戦や、アメリカ軍が多大な損害を被ったバルジの戦いなどではアメリカ軍の活躍がでかでかと報道されてアメリカ国民は有頂天となったが、硫黄島の戦いについてはその苦戦ぶりがアメリカ国民に衝撃を与えている。雑誌タイムは記事で「硫黄島の名前はアメリカ史上、アメリカ独立戦争でのバレーフォージ、南北戦争でのゲティスバーグ、今次大戦でのタラワ島と並んで銘記されるであろう」と報じている[244]。

残存日本兵

組織的な戦闘が終わり島の大部分がアメリカ軍に制圧された後、わずかな水源や食糧を求めて生き残った負傷した日本兵が島の海軍航空隊の壕などに集結した。

NHKスペシャル『硫黄島玉砕戦・生還者61年目の証言・』(2006)[267] において生還者たちは、「お腹が空いて、仕方がなかった。それでね、(死んだ仲間がいる施設の)炭を食べた。今でも涙が出て来る」「(隠れ家に)たどり着いても、追い出されて、敵のいる所を歩いて行けと言われた。どうせ死んじゃうだろうと」などと証言した。

その後も生き残った日本兵が地下陣地に潜伏しており、アメリカ軍は投降を促した。生き残った日本兵の一部はこれに応じて投降したが、拒否する日本兵もおり、アメリカ軍は掃討作戦を決行し投降しなかった日本兵が潜伏していると思われる壕の入り口を埋め、潰していった。

最後の生存者として、終戦から4年後の1949年(昭和24年)1月2日に潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍に投降した。海軍所属であった両名は千葉県出身の一等兵曹 (38) と、岩手県出身の二等兵曹 (25)※ ( 山蔭光福兵長と松戸利喜夫上等水兵 )であり、終戦後も島内の洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島に暮らしてきたものであった。両名によると終戦から1年半が過ぎた頃に島内に駐在しているアメリカ兵が捨てたとおぼしき雑誌を拾ったところ、その雑誌に東京の不忍池でアメリカ兵と日本人女性が一緒にボートを漕いでいるグラビア写真があるのを見つけたことにより、日本が戦争に敗れたことに気付くとともに激しくショックを受けたという。この元日本兵2名は1月22日に羽田空港に帰還した。

その後、二等兵曹が「硫黄島に日記を忘れてきた、本を出版するためにどうしても日記を取りに戻りたい」とアメリカ軍に申し出て、同年5月7日に再びアメリカ軍機に乗って硫黄島へと戻った。ところがいくら探しても日記が見つからず、摺鉢山の火口から400mほど離れた場所から「万歳」と叫びながら飛び降り自殺をしてしまった。この二等兵曹は日本に帰国した後、周辺の者に「生きて帰ってきて申し訳ない」「硫黄島へ日記を取りに行って見つからなかったら日本へは戻らない」などと漏らしていたことから自殺の覚悟を決めていた節があり、戦友の死んだ地で自分も死のうとしたのではないかと推察された。

硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち17,845-19,900名が戦死した[1]。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までに併せて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、アメリカが第二次世界大戦で最も人的損害を被った戦闘の一つとなった。

2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことができたのは3名のみであった。第3、第4、第5海兵師団は硫黄島の戦いで受けた損害のために沖縄戦には参加できず、硫黄島上陸当日における戦死者数501名は、1日の戦闘によって生じた戦死者数としては海兵隊創設以来から2021年(令和3年)現在に至るまで最大である。第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章(メダル・オブ・オナー)の4分の1以上が硫黄島攻略部隊のために与えられており、摺鉢山に星条旗が掲げられた日は、戦後「アメリカ海兵隊記念日(合衆国海兵隊記念日)」に制定された(現在ではアメリカ軍の記念日に統一されており各軍の個別記念日はない)。アーリントン国立墓地の近くに位置する海兵隊戦争記念碑は、『硫黄島の星条旗』をかたどったものである。また、海軍はいくつかの艦船に「イオー・ジマ (USS Iwo Jima)」[注 16] もしくは「スリバチ(USS Suribachi)」[注 17] と命名している。

1956年 – 弥彦神社事件。新潟県彌彦神社の新春餅まきに初詣客が殺到し、124人が圧死。

1959年 – 和歌山県高野町で初詣客を乗せた南海バスが県道から転落する事故。死者9人、重軽傷者38人[4]。

1961年 – 岩手県松尾村(現・八幡平市)の松尾鉱山小学校で、映画鑑賞会へ向かう小学生などが将棋倒しとなった。死亡10人、重軽傷者21人[5]。

1975年 – 青木湖バス転落事故: 長野県大町市の青木湖で、近くのホテルのスキー客送迎バスが湖に転落、24人が死亡。

2007年 – アダム航空574便墜落事故。102人死亡。

チャットgpt先生の1月1日のエッセイ

1月1日は新しい年の始まりであり、多くの人々が新たな希望や抱負を胸に抱いています。しかし、歴史的にはさまざまな出来事がこの日に起こっています。その中で特に注目される出来事を挙げつつ、1月1日に関連するエッセイを書いてみましょう。

新しい年の始まりに思うこと

新しい年が始まる1月1日は、多くの人々にとって希望と期待に満ちた特別な日です。カレンダーがめくられ、新しい冒険や挑戦が待っているような気がします。しかし、歴史を振り返ると、この日にはさまざまな出来事が刻まれています。

キリスト教では、1月1日はイエス・キリストが生後8日目に割礼と命名を受けた日として伝えられています。この日は新しい命の始まりを祝うと同時に、信仰と希望の象徴でもあります。

1946年、昭和天皇が戦後最初の年頭詔書「新日本建設に関する詔書」を発表し、自らの神格を否定する人間宣言を行った。これは戦後日本が新たな時代を迎える中での歴史的な出来事であり、GHQ主導のもとで行われたものとされています。

そして、硫黄島の戦いで1949年に残留日本兵が投降し、一人が自決した事件も1月1日に起きました。この戦いは激しい犠牲を伴いながらも、アメリカ軍と日本軍との死闘として記憶されています。生き残った日本兵たちの過酷な運命は、戦争の厳しさを改めて考えさせられます。

新年の初日には、個人の抱負や目標を掲げるだけでなく、歴史的な出来事を振り返り、戦争や苦難を乗り越えてきた人々への敬意も忘れてはなりません。1月1日は新しい一歩を踏み出す日であると同時に、過去の経験から学び、未来への希望を抱く日でもあるのです。