kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日 8月21日 1942イル川河畔の戦い、ほか写真wikipedia一木支隊兵士遺体

8月21日

20250821木曜日旧暦6月28日先負(壬戌みずのえいぬジンジュツ)月齢 27.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月壬戌みずのえいぬ日  年末まであと132日

吉方位 隠遁日 壬戌みずのえいぬ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8821%E6%97%A5

8月21日の出来事

1831年 – 米バージニア州サウサンプトン郡で、ナット・ターナー率いる奴隷の反乱が勃発。50人以上の白人が殺害される(ナット・ターナーの反乱(英語版))。57人の白人が殺され、報復に後に250人以上の黒人が拷問され、殺された。

1879年 – アイルランド・クノックで聖母マリアが人々の前に現れる[6]。

1923年 – 石狩沼田幌新事件(-同月24日):日本史上2番目の熊害事件                  ヒグマが石狩沼田の幌新地区にて、祭りから家に帰る途中の住民を襲撃した。死亡者        4人

負傷者    4人

1942年 – 第二次世界大戦・ガダルカナル島の戦い: イル川渡河戦(テナルの戦い)

損害 米軍3000中 戦死40 日本軍一木支隊900名中戦死777名

1948年 – 帝銀事件の被疑者として画家の平沢貞通が警視庁に逮捕される。

1970年 – 台風10号(土佐湾台風)が高知県に上陸し、大きな被害をもたらす。死者23名、負傷者556名

1986年 – カメルーンのニオス湖で湖水爆発。二酸化炭素が大量発生し、近隣の住民1800人が窒息死。

2004年 – チェチェン共和国首都グロズヌイにおいて、チェチェン独立派テロリストが同年8月29日実施予定の大統領選挙に反対し、投票所や警察署を襲撃する[10]。治安部隊・武装勢力合わせて60人以上が死亡。

2016年 – 名古屋小6受験殺人事件が発生[16]。2016年(平成28年)8月21日に、愛知県名古屋市北区のマンションで、父親が小学6年の長男(当時12歳)を包丁で刺し、死亡させた日本の教育虐待・殺人事件である。

——————   

1831年 – 米バージニア州サウサンプトン郡で、ナット・ターナー率いる奴隷の反乱が勃発。50人以上の白人が殺害される(ナット・ターナーの反乱(英語版))。57人の白人が殺され、報復に後に250人以上の黒人が拷問され、殺された。

歴史的にサウサンプトン反乱として知られるナット・ターナーの反乱は、1831年8月にバージニア州サウサンプトン郡で起こった奴隷反乱である。ナット・ターナーが率いるアフリカ系アメリカ人の奴隷で構成された反乱軍は、55人から65人の白人を殺害し、米国史上後者の人種グループにとって最も致命的な奴隷反乱となった。反乱は8月23日朝、ベルモントプランテーションで数日以内に事実上鎮圧されたが、ターナーはその後30日以上隠れて生き延びた。

反乱の余波で白人の間では恐怖が広まっていた。民兵と暴徒は報復として120人もの奴隷と解放されたアフリカ系アメリカ人を殺害した。裁判の後、バージニア州はターナー自身を含む反乱に参加したとして告発された56人の奴隷を処刑した。参加しなかった多くの黒人も、その熱狂の中で迫害された。ターナーは教育を受け、説教者であったため、南部の州議会は、奴隷と自由黒人の教育を禁止し、自由黒人の集会権やその他の市民的自由を制限し、すべての礼拝に白人牧師に出席を義務付ける新しい法律を可決した。

国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館のロニー・バンチ館長は、「ナット・ターナーの反乱はおそらくアメリカ史上最も重要な蜂起だ」と語った。[1]

1879年 – アイルランド・クノックで聖母マリアが人々の前に現れる[6]。

1923年 – 石狩沼田幌新事件(-同月24日):日本史上2番目の熊害事件                  ヒグマが石狩沼田の幌新地区にて、祭りから家に帰る途中の住民を襲撃した。死亡者        4人

負傷者    4人

負傷者    4人

石狩沼田幌新事件(いしかりぬまたほろしんじけん)は、大正12年(1923年)8月21日の深夜から8月24日にかけて、北海道雨竜郡沼田町の幌新地区で発生した、記録されたものとしては日本史上2番目[注釈 1]に大きな被害を出した熊害事件。

ヒグマが開拓民の一家や駆除に出向いた猟師を襲い、4名が死亡、4名の重傷者を出した。

1942年 – 第二次世界大戦・ガダルカナル島の戦い: イル川渡河戦(テナルの戦い)

損害 米軍3000中 戦死40 日本軍一木支隊900名中戦死777名

イル川渡河戦(イルがわとかせん、英語: Battle of the Ilu River)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)8月21日、ガダルカナル島において日本軍とアメリカ合衆国海兵隊

を主力とする連合国軍との間に起きた陸上戦闘。テナルの戦い(英語: Battle of the Tenaru)[3]、アリゲーター・クリークの戦い(英語: Battle of Alligator Creek)とも呼ばれ、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍最初の大規模反攻でもあった。

日本軍はガダルカナル島奪回作戦を「少数の陸軍部隊で容易に実現できる」と考えていた[9]。だが8月20日のヘンダーソン飛行場使用開始により、ガ島周辺の制空権を掌握されてしまう[31]。つづく一木支隊先遣隊の大損害により、飛行場奪回の見込みが立たなくなった[注 15]。日本軍はガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを認識し、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいったものの第二次ソロモン海戦で低速の輸送船団が空襲をうけて撃退され[33]、一木師団第二梯団の上陸は中止された[34]。このあと、日本軍のガ島輸送は駆逐艦による鼠輸送(東京急行)に頼らざるを得なくなった[35][36]。

1948年 – 帝銀事件の被疑者として画家の平沢貞通が警視庁に逮捕される。

帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区長崎の帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店(1950年に統合閉鎖され、現存しない)に現れた男が、行員らを騙して12名を毒殺し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件。

画家の平沢貞通が逮捕され死刑判決を受けたが、平沢は獄中で無実を主張し続け、刑が執行されないまま、1987年(昭和62年)に95歳で獄死した。

第二次世界大戦後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、後述のように多くの謎が残るため、未解決事件とされることもある。

1970年 – 台風10号(土佐湾台風)が高知県に上陸し、大きな被害をもたらす。死者23名、負傷者556名

1986年 – カメルーンのニオス湖で湖水爆発。二酸化炭素が大量発生し、近隣の住民1800人が窒息死。

ガスの飽和

ニオス湖は二酸化炭素で飽和していることが確認されている世界で3つの湖の中の一つである(他2つは、ニオス湖から100kmほど離れた場所にあるモヌン湖と、ルワンダにあるキブ湖)。この地帯の地底に存在するマグマ溜まりからは大量の二酸化炭素が発生しており、これが湖底から染み出してニオス湖の湖水に9千万トンの二酸化炭素となって溶け込んでいる。

ニオス湖は温度によって分けられる複層構造を持っており、水面に近い層の水ほど密度が低く、湖底に近い層の水ほど冷たく密度が高い。長期間にわたって染み出し続けた大量の二酸化炭素は湖底付近の水に溶け込んでいる。

平時、湖は安定しており、二酸化炭素は深層に溶け込んだ状態でとどまっている。しかしながら、時が経るにつれて湖水は二酸化炭素で過飽和し始め、地震や噴火などの出来事をきっかけとして、大量の二酸化炭素が突発的に噴出する可能性がある。

1986年8月21日にニオス湖で湖水爆発が発生し、それが引き金となって160万トンの二酸化炭素が大気中に放出された。二酸化炭素は近隣の2つの渓谷に勢いよく流れこみ、20km 圏内にいた約1,800人と家畜3,500頭が二酸化炭素中毒または窒息で死亡した。また約4,000人の住民がこの地域から避難したが、その多くがガスを原因とする呼吸障害や火傷、麻痺などを訴えた。

何が原因となってこれほどに大規模なガスの噴出が起きたかは不明である。大部分の地質学者は地すべりが原因と推定しているが、中には小規模な噴火が湖底で起きたためと考えている学者もいる。第三の説として、湖の片側に偏って雨が降ったことが湖水の対流を引き起こしたという説もある。いずれの説を採るにせよ、湖底水深による加圧下で飽和に達していた水塊が、急激に水面近くに湧き上がった、と考えられている。結果、水圧から解放された二酸化炭素がまさに炭酸飲料の栓を抜いた様に、大気中に噴出したと見られる。

噴出したガスは1km3に上ると考えられる。二酸化炭素は空気よりも重いため、山の斜面に沿って流下しながら周囲の空気を追い出し、放散するまでの間に住民と家畜を窒息死させた。通常時、湖水の色は青く見えるが、ガスが噴出した直後は湖底部の鉄を多く含んだ水が水面近くに上昇して空気に触れ酸化したため、赤く変化した。水位が約1m下がったのは、それだけの量のガスが放出されたことを示す。ガスの噴出は同時に湖水の氾濫をも引き起こしたものと思われ、近くの樹木はなぎ倒されていた。

2004年 – チェチェン共和国首都グロズヌイにおいて、チェチェン独立派テロリストが同年8月29日実施予定の大統領選挙に反対し、投票所や警察署を襲撃する[10]。治安部隊・武装勢力合わせて60人以上が死亡。

2016年 – 名古屋小6受験殺人事件が発生[16]。2016年(平成28年)8月21日に、愛知県名古屋市北区のマンションで、父親が小学6年の長男(当時12歳)を包丁で刺し、死亡させた日本の教育虐待・殺人事件である。

2019年(令和元年)6月24日に行われた裁判では、息子の母親が検察側の証人として出廷し、「父親ははじめは息子を可愛がっていたようだが息子が小学3年生の終わり頃に学習塾に入ってから暴力がエスカレートし、教科書を破ったり、積み重ねた本を蹴ったり破いたりするところを母親が目撃していた。また母親が父親のことを止めに入ろうとすると、『受験もしたこともないやつがガタガタ言うんじゃない』と父親が発言し、また息子の毛髪が抜けているところがあり、息子が『パパに抜かれた』と発言し、母親が『このまま家を出よう』と提案すると、息子が『パパとママ一緒がいいから嫌だ』と言っていた」と証言した[4]。7月19日、名古屋地方裁判所は、父親に対し殺人の罪で懲役13年の実刑判決を言い渡した[5]。

チャットgpt先生の8月21日のエッセイ

8月21日――暦の上では旧暦6月28日、月齢27.3の細い月が空にかかる頃。
先負の日で、干支は壬戌(みずのえいぬ)。年末までは残り132日。静かに、しかし深く歴史の足跡が刻まれた日です。


この日を振り返ると、人類の歴史の中で「境界を越える瞬間」が幾度も訪れていることに気づきます。

1831年、アメリカ・バージニア州でナット・ターナーの反乱が始まりました。奴隷制度という巨大な圧制の下で、教育を受けた黒人説教師ターナーが立ち上がった事件です。結果は苛烈な弾圧と報復を招きましたが、その火花はアメリカ社会の深層に長く残り、南北戦争や公民権運動の遠い前触れともなりました。「正義」は必ずしも勝利をもたらさない――しかし、その試みは次の世代への遺言のように残ります。

1923年、北海道幌新地区でヒグマが4人の命を奪った「石狩沼田幌新事件」。自然は豊かさと脅威の両面を持つ存在であることを、開拓民は身をもって学ばされました。この事件は、人間が自然と対峙するときの限界と、共存の難しさを象徴しています。

1942年、ガダルカナル島のイル川渡河戦では、日本軍が「少数精鋭で容易に奪還できる」と信じた飛行場が、予想外の米軍の防衛力によって覆されました。作戦の楽観が悲劇を呼び、数百人が命を落とす。戦争の現場では、希望的観測が命取りになる――それは現代の政治や経済の戦略にも通じる教訓です。

1986年、カメルーンのニオス湖で湖水爆発。1,800人が一瞬にして窒息死しました。敵も戦争も関係なく、大地の奥深くからやってくる災厄。地球は時に、人類が制御不能な現象を思い知らせます。炭酸飲料の栓を抜くように、湖底から吹き上がる二酸化炭素の奔流――それは、美しい湖面が秘める静かな恐怖でもありました。

そして現代に近づくと、2004年のチェチェン、2016年の名古屋小6受験殺人事件と、争いと暴力は形を変えて続きます。国家の独立を求める武装蜂起も、家庭の中で起きる教育虐待も、背景には「理想」と「圧力」の衝突があります。それは国家間にも、親子の間にも潜むものです。


こうして並べてみると、8月21日は「人が限界に挑む日」とも言えるかもしれません。
抑圧への反乱、自然との対決、戦争の現実、そして不可抗力の天災。
すべてに共通するのは、「思い通りにならない現実」と、それでも行動せざるを得ない人間の姿です。

月齢27の細い月は、もうすぐ新月。光は減りつつありますが、闇の中で目を凝らすことで見えてくるものもあります。
8月21日の歴史は、その暗がりの中に立ち、何かを選び、何かを失い、何かを残してきた人々の記録です。

今日を生きる私たちも、同じように選択を迫られています。違いは、私たちが彼らの記録を知っていること。歴史の蓄積を背負って、次の一歩をどう踏み出すか――それが、今を生きる者の特権であり、責任です。