kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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発心集 第二第7話 相真、没の後、袈裟を返す事The Outsider Episode19

発心集 第二第7話 The Outsider Episode19相真、没の後、袈裟を返す事

発心集 第二第七話 相真、没の後、袈裟を返す事

(そうしん ぼつののち けさをかえすこと)

津國(つのくに摂津大阪・兵庫の堺の地域)の渡辺というところに長柄(ながら)の別所という寺があった。そこに、近頃 暹俊(せんしゅん)という僧がいた。暹俊法師(せんしゅんほうし)はわかいころは比叡山で学問をしていたが、次第(しだい)あって、ここ長柄(ながら)の別所に住むようになった。

この暹俊法師(せんしゅんほうし)はどのようにしてか 先代より受け継いだのかわからないが、いわれのある貴重な袈裟を所持していた。その袈裟は、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)がその昔 説法された時のものであるといわれるもので、蓮(はす)の糸で織ったものであった。もともとは比叡山の禅瑜僧都(ぜんゆそうづ—延暦寺の学問僧)が伝え持っていたものである。それを、京都丹波(たんばむら)の池上村の皇慶阿闍梨(こうけいあじゃり)が 乙護法(おつごおう)つまり幼い護法童子(ごほうどうじ ごおうどうじ)に無熱池(むねっち—あの世にある広大な池)につけて洗わせたといういわれのある袈裟であった。

暹俊法師(せんしゅんほうし)は、八十の歳になるまでこれといった弟子がいなかった。しかし、そのころ近くの柳津(りゅうつ)の別所の寺に 相真(そうしん)という法師がいた。

相真法師(そうしんほうし)はこのころ六十代であった。暹俊法師(せんしゅんほうし)が所持する件(くだん)の袈裟が非常に貴い貴重なものであるとのことを伝え聞いて、これを譲り受けようと思い立った。そして、暹俊法師の弟子となったのである。

「この貴重な袈裟を伝承するために、我が弟子になろうとする志(こころざし)は非常に貴いことであります。

まずは、袈裟三衣(けさ さんえ 袈裟三種のうち大衣だいえ、七条しちじょう、五条ごじょう がある)をあなたにお譲りしましょう。残りの七条と大衣の袈裟は、私の死後に受け取りなさい。」と暹俊法師は 相真法師に言った。相真法師はこれを聞いて喜んだ。そして、まずは五条の袈裟をもって帰った。

その後のことである。意外にも、相真法師は 暹俊法師よりも病(やまい)を患(わずら)って先になくなってしまった。死に際して、件(くだん)の袈裟を床の間(とこのま)に掛けて弟子たちに言った。

「私が死んだあと、必ず一緒にこの袈裟を埋めてくれ」と。

そして、相真法師の死後弟子たちは言われたとおりにして、日数が経過した。

その後、暹俊法師は 相真の弟子たちに次のように、言い送ったのである。

「袈裟は 確かに 相真法師にお譲りすると故人と約束しました。しかしながら、思いがけぬことに、私よりもはやく 相真法師が先立たれました。袈裟の三衣(さんえ)が不ぞろいに離れて存在するのはよろしくない。よって、故人にお譲りした三衣(さんえ)のうちの五条の袈裟をお返しいただきたい。」と。故 相真法師が弟子たちに命じた、五条の袈裟と共に葬(ほうむ)れとの遺言(いごん)の内容を暹俊法師にいったが、暹俊はこれを信用しない。これ以上の、言った言わぬの水掛け論は無益であるとして、相真の弟子たちは神仏への誓文(せいもん)を書いて 暹俊法師に送った。

神仏への誓文(せいもん)を提出した上での相真法師の弟子たちの言い分に対し、それ以上とやかくいうこともできなかった。したがって、暹俊法師はその後を五条の袈裟の行方(ゆくえ)を嘆きながら月日を経ていた。

そのような状況の中ほぼ一年経った長寛二年(1164年)の秋に、暹俊法師は夢を見た。夢の中で亡くなった相真法師が現れて次のように言った。

「私は 五条の袈裟を掛けさせていただいた功徳(くどく)により、都卒の内院(とそつのないいん 欲界六天の第四 弥勒菩薩が説法をする弥勒浄土といわれる)に往生(おうじょう)することができました。しかしながら、五条の袈裟は 私が弟子たちに遺言(いごん ゆいごん)し、私と共に一緒に埋めてしまいました。それを、あなた暹俊法師が 三衣(さんえ)の袈裟が不揃(ふぞろ)いになることを深くお嘆きになっておいでのようですので、この五条の袈裟をお返ししたいと思います。この夢の後、袈裟を納めてあった箱を開けてご覧になってください。」と。

暹俊法師は、夢が覚めて 三衣の袈裟がもともと納めてあった箱を開けてみた。すると、五条の袈裟がたたまれて中に納めてあった。夢のことといい、実に貴く不思議なことであったので、暹俊法師は涙を流して感謝し 畏(おそれ)れおののいた。

その後、暹俊法師(せんしゅんほうし)は臨終の際、三衣(さんえ)の袈裟を掛けて往生した。そして、その弟子に弁水法師(べんすいほうし)という僧がおられたが、この三衣の袈裟を伝承されて、臨終の際、同様にされて往生された。この弁水法師が往生されたのは、私 鴨長明がこの記録を書いている現時点から十年のうちの出来事である。多くの人が伝え聞いていることである。

いにしえの昔より伝えられる物語には貴くありがたいことが多く記録されている。しかし、時間の経過に従って、その貴い霊験(れいげん)も消失するものである。ごく稀(まれ)に残っているとされる奇瑞(きずい)も、時を経て、人も代替(だいが)わりして 現代にいにしえのままの奇蹟を残していることはまずない。いにしえの奇蹟が残っていることは仏法の力も衰えて 濁った世の中にあって、まことに稀有(けう)のことである。したがって、その稀有な事象の一つとして、現在も伝えられ存在するその三衣の袈裟(さんえのけさ)を 仏縁を結ぼうとして参拝する人は多いということである。

(20230909訳す)