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発心集 第三巻第8話 蓮華城 入水の事 The Outsider Episode 32

発心集 第三巻第8話 蓮華城 入水の事 The Outsider Episode 32

発心集 第三巻第8話 蓮華城 入水の事

  (れんげじょう にゅうすいのこと)

これは比較的近時のはなしである。

蓮華城という ひろく人に知られた聖(ひじり)がいた。(蓮華城れんげじょう 伝未詳)

歌人として有名な登蓮法師(とうれんほうし)と互いにあい知り合うなかで、折に触れて面倒を見て長年過ごしてきた。

あるときにこの聖(ひじり)蓮華城が次のように登蓮法師に語った。

「今は わたしも 年と共に体力も弱くなってきましたので、死期が近づいてきたことはもう疑うまでもない。わたしは自分の臨終について正念として最期を迎えたいとの望みをもっている。だから、心が清澄なとき、入水(にゅうすい)をして、我が終末を迎えようと思うのだけど。」と。

この聖 蓮華城の語るのを聞いて、登蓮法師は驚いて言った。

「それは よくないと思うなあ。ただ一日なりとも、念仏の功を積もうとして、祈願を続けるべきじゃないかな。入水自殺などのような行は、愚かな者のするもんじゃないかなぁ。」と、聖を諫(いさ)めた。

しかしながら、聖 蓮華城は その後も その決意をゆるぎなく固めているように感じられた。だから、そのうち登蓮法師も、

「あなたが このように硬く決心されているとは思わなかった。それがわたしにもわかったから、もう止めようとは思わない。そうするのが前世からの決め事なのだろう」と述べた。

そうして、その語らいの後は 入水のための用意などをふたりで協力しておこなうようになった。

そうして、とうとう決行の日が来た。

聖 蓮華城は、桂川の水の深いところに行って、南無阿弥陀仏の念仏を高らかに唱えながら、やがて水の底に沈んで行ったのだった。

そのときうわさを聞きつけてきた人たちが大勢いて、まるで市(いち)にあつまる人々のようだった。そして、聖(ひじり)の入水後もあつまった皆しばらくは嘆き悲しむこと尋常この上なかった。登蓮法師も 「長年のあいだ、たがいによく見知っていた聖が わかっていたとはいえ、現実にこのような最期をとげられたるはなんとしたものか—。」と 感慨深くおもって、涙を抑えながらこの場を去っていった。

このようにして、日数が経っていったが、登蓮法師は 物の怪(もののけ)がとりついたような病(やまい)にかかってしまった。周りの人たちも、異常なことであると思って、看病などしているところに、次のように霊があらわれて「わたしは 生前の蓮華城である。」と名乗ったのであった。

これにたいして登蓮法師は次のように霊に対して言った。

「そうあなたが言われることは納得できない。というのは、

長年の間 聖と自分は、たがいに相(あい)知り合う間柄で 臨終の後に 恨まれるようなことをした覚えがない。ましていわんや、蓮華聖(れんげひじり)の入水(じゅすい)についての発心の様子は、一通りのものでなく 貴く最期を迎えられたのではないのか。それが、霊であるおぬしがいうように 思いもしないありさまでここに来たのはどうしてなのか。」と。

対してその蓮華城となのった物の怪は次のように言った。

「その件について述べましょう。あなた登蓮法師は わたくしの入水をよく意見してやめさせようとなさいました。これに対し、わたしは自分自身の本心をもわからずに、今となっては取り返しのつかない死に方をしたと思っているのでございます。

特に人に言われてしたことでもなく、他でもない自分自身が決めてしたことであります。ですから、まさか死の間際に 後悔の気持ちなど起こるはずもないと思っておりました。

しかしです。いかなる天魔のしわざなのでしょうか。

まさに入水捨身のため、水に入ろうとした瞬間にです。突然死ぬのが怖くなってしまったのでございます。しかしながら、あれほどの多くの人がいるなかで、どうして今更入水をとりやめることなどできましょうか。

『ああ、今すぐにわたしをとめてくれないかなぁ』と、思って そこにいたあなたと目を合わせたりいたしましたが、無論わたしの気持ちなどわからぬようすでありました。挙句『さあ、早く、早く』と急き立ててわたしを沈めようとするばかりでありました。そのことについて、恨めしく思う気持ちさえうまれて、もう覚醒往生どころの気持ちではありませなんだ。

その結果です、思いもしない 地獄・餓鬼・畜生の三悪道へと堕ちてしまったのでございます。」と。

更に続けて、

「この堕地獄の事、自分が愚かである事が原因であります。ですから、ひとさまに恨み言を申すべきでないのは承知であります。 しかし、最期に 名残惜しいと思う気持ちもございまして、このようにこちらに詣で来たのでございます。」と 蓮華城と名乗った物の怪は言った。

以上のはなしから、われわれが学ぶことは何であろう。

これこそ 現世の己の業により、相応の結果を招いてしまう、因縁 宿業(しゅくごう)というものの厳正さを思え、ということであろうか。そうとらえると、また この宿業の厳正さ、因縁の報いというものは、後の世の人の反省や自戒の糧(かて)となるであろう。

わたし鴨長明が思うに、ヒトというものの心はかんたんに推し量りがたいものである。であるならば、一見、善行と思われるような行動の 動因、原因の本心は必ずしも、

清浄で素直な気持ちからでたものと言えない場合がある。

たとえば、他人より優れ他人より賞賛を得たいとの思いが行動の原因であることはままある。また、そういった他人より自分は優れているという驕慢の姿勢や、自分より優れていると思っている他人への嫉妬の気持ちが行動の原因になることもある。そういって、純粋な動機ではなくそういった 驕慢・勝他の動機から身灯や入水といった経文の表面の文言に書かれている捨身供養をしさえすれば浄土に生まれ変わるとばかり思いこんで、あせった気持ちで そのような捨身の行を思い立ち実行したりするということもあるかと思う。

結局、こういった表面の形式は仏教であっても、動機が他人に勝ちたいだの他人の賞賛を得たいだのでこのような行を行うことは、所詮 仏教以外の外道の苦行に異ならないのである。経文の文言にとらわれ、実際の動因は自分以外の他人の目であったりすることというのは、まあ大なる邪見と言う他ない。

であるから、身灯供養で火に入ったり 入水で水に入ったりという苦しみというものは並大抵のことではないのであるから、偽りの動因によってこれらの行為に取り組んだ場合はどうやってこれらの過酷な行を耐え忍ぶことができるだろうか。耐えられるわけがないではないか。

それらの行の苦痛は想像を絶するものなので、いざというときは心が平静でいられようはずがない。結局、このような行を真に堪え得るのは みほとけの力をお貸しいただいて、正念つまりただしい志しがなければ実践完遂は不可能なのである。

しかしながら、そういったことに思いの至らない愚かな人の言説に、『焼身の身灯は難しいが、入水なら簡単にできるだろう』というものがある。つまり、焼身にくらべて 見た目は入水は容易そうであるので、現実には 入水がどれだけの苦痛を伴うものかわからないからこのような言辞がでてくるのだろう。

これにつき入水に失敗し一命をとりとめられた或る聖(ひじり)が次のように語っている。

「あの水に溺れて、ひとえに死のうといたしましたが、結局 その場にいた人に助けられて、辛うじてこうして生き延びてございます。

そのときのことを思いだしまするに、鼻や口から水が入ってきて責められるような苦痛といいましたら、たとえ地獄の苦しみといいましても、これ以上のものではないであろうというほど苦しく感じました。でありますが、世間の多くの人たちが 入水により死ぬことをたやすきことと思っているような言説をきくことがあります。それは、実際に水というものがいかようにして人を殺すのかその現実の様(さま)を知らないからこそ 言えることでございます。」と。

また或る人が次のように語っている。

「もろもろの人間の行いというものは、実は全て 自分の心の中にあるのである。であるから、結局 自らが為そうとする『行い』は、つとめて意識してよく吟味し、みずからその『行い』が適切なのかどうかをよくよく考えるべきである。

自分の行おうとすることは つまるところ他人には完全には 理解され取って代われるものではないのである。

自分自身が過去に為してきた行為の報いの業因(ごういん-原因)も、その行為の未来での果報(かほう・結果)も、また諸仏や諸天の加護なさるであろう宗教上の行為であったとしてもである。自分自身の気力や心力が衰えてしまって自分自身の心の持ち方を安直にしてこれらの行為を為したとするならば、そのような不完全な行為は自然とその不十分で至らないことのなんらかの証左があらわれるはずである。そんな身の入らぬ行為を為した場合はせいぜい本来行おうとしたことの全体の一部を行える程度が関の山である。

まして、もしある人がいてこの人が仏道修行を行うために、山林に隠遁し一人荒野のなかにいるとせよ。そんななかでも、なお我が身を損なうことを恐れ、自分の命を惜しむ心があるのならば、諸仏や諸天が加護したもうことは期待できない。

居住の安全をはかり、垣や壁で囲いもし、賊や獣からの襲撃を逃れる準備もして、自ら身を守る準備もして、病にかからぬような備えもして、そういった人事を最低限尽くして、その上で山野の中での信仰が徐々に深まっていくのを願うべきである。

なすべき準備をしたその上でもし、ひたすら仏に奉る身であると思って、虎や狼が襲撃してきても、取り立てて恐れる心もなく、また食い物が絶えてなくなり、飢えて死んだとしても、まったく悔いがないと思えるような心境になったならば、仏も必ずや擁護したまい、菩薩も諸天聖衆(しょうじゅ)もおいでになって、その者を守りたもうのである。

このような覚悟の定まった者を 諸事象に応じて生じるとされる悪鬼や羅刹も修行を妨げる害獣や毒虫も その修行者を敢えて襲うというようなこともなくなるのである。

同様に、

盗っ人は 悪念を起こさず去り、病気も 仏の加護により癒(い)えてしまうであろう。

以上のような 人事を尽くした準備や覚悟も伴わない 浅い心がけで、ただ諸仏諸天の加護を頼み願うだけであるというような姿勢では、誠に危ういことである。」と。

以上のように或る人物の語ったことを聞いたことがあった。わたし鴨長明も けだし そのとおりであるとこの或人の言辞(げんじ)に深く同意する。

(20240125 訳す)

<訳者記>

本編も 発心集作者鴨長明の 長めの感想が述べられています。

さすが名だたる鴨長明の 感想であります。

安易に捨身供養をするものではない。よくよく、仏道を志して、常道成就のために、捨身供養しかないという場合に、十分準備を為し覚悟を固め事前の 人事を尽くすことを疎かにしてはならない。

一重に現実の捨身の前に、既に臨終の心境、生において死を見る 死を覚悟できている心境へと至ることが肝要である。 生の段階において死の覚悟ができているこういった次元に到達した者において、捨身も既に結果としての行為でしかない。 捨身も既に 生において死を覚悟できているというレベルに至って 過酷な入水や身灯もなし得るのである、というところでしょうか。

この覚悟  臨終を常に意識できている、生において死を覚悟することが日常である というような生き方は 実は 特殊な生き方ではないということであります。 真剣に 仏道や 求道 人生で何らかの価値を探求する人間にとっては 必要な覚悟であると思えます。究極の至高の禅である「性エネルギ-昇華秘法」の実践においても、生死は不二とみる真剣さは必要なことであると思えます。

思えば、紅白の合一 とは 性の合一と歓喜を観想することでもあります。宇宙の父と宇宙の母の性的合一と 絶頂の歓喜 これを二匹の蛇かからみあがり 観相者 実践者の体内に太陽の子を誕生させる ということは 最高の性の 絶頂と歓喜のもとになりたちえることでもあります。

セックスの際、男も女も 「イク」 「死ぬ」 つまり「逝く」「死ぬ」といった語を本能的に発するのは、セックス 男女の性的合一が 生—今世において死—彼岸を垣間見る儀式であることを示すものであります。

実際、真言の口決秘伝には 行者の観想に 金剛薩埵と愛染明王の性的合一を観想する というものがありました。この際 金剛薩埵を男神とみ、通常愛染明王は男神とみなすのでありますが、この性的合一の観想の際は 愛染明王を女神とみるのであります。

宇宙の父と宇宙の母の性的合一。それにより絶頂を迎え 歓喜の獅子吼を発する女神 というような ことを観想するのであります。これ 性の観想が実は 究極的に 生死を自覚する行ともなりうるのであり、「性エネルギ-昇華秘法」のプラクティスにおいても生死の自覚と観想は非常に重要な部分であると思われます。

般若心経=般若心=プラジュニャフリダヤ=女神の心臓=女神の真言の核心は

羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦菩提薩婆訶 でありますが、

これは

宇宙の父と宇宙の母が性的絶頂に繰り返し合一し放っている歓喜の叫びを示す真言でもあります。生死不二の性エネルギ-昇華秘法の真言であります。

逝った、逝った、彼岸に逝った、絶頂を迎え完全に彼岸に逝った、そして我が生まれた

これが  羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦菩提薩婆訶

の意味ですが、

宇宙の父と、宇宙の母の最高のセックス まぐわいにおいて 太陽の子である我が誕生した

という真言であり、セックスはまた姫事、秘め事でもありますから、この部分は玄奘三蔵法師はサンスクリット原文のマントラのまま表現したのであります。

要は この部分が仏教の究極であり、且つ 仏教を超えて太陽神教の本質に至る真言であるとは以上の意味であるのであります。

また「般若波羅蜜多理趣経」の心でもありましょう。般若波羅蜜多理趣経の心は これ六道の性的退廃の男女のセックスを肯定するものではないのであります。宇宙の父と宇宙の母のセックスの礼賛に本質があるのであります。つまり「性エネルギ-昇華秘法」の予言に

般若波羅蜜多理趣経もなっておるのであります。

般若波羅蜜多理趣経および般若心が サーティンキュー師匠の「性エネルギ-昇華秘法」の予言予告であります。

世の凡百の解説書 学者や性的退廃僧がもっともらしい解説を繰り広げておりますが、

「性エネルギ-昇華秘法」の実践者にしかわからぬ 般若心経の真意であります。

そして真のセックスは生死不二なのであります。それにて太陽の子を我が身に宿すのであります。

なにより、以上のすべてをサーティンキュー師匠の現代の真言を唱え、確実に性エネルギ-昇華秘法は実践でき、完成いたしました。

「宇宙の母の援助を得て、性エネルギーを33個の脊椎骨に沿って、二匹の蛇が絡むように上昇させて、脳神経と胸腺に?(ハテナ)の形に昇華」し太陽の子をはらみ、我が身も太陽の子と成る

この文言以上に大事なのが プラクティスを完成し現実におのれの性エネルギ-昇華が達成されることであります。

蘇民将来子孫也 われは「性エネルギ-昇華秘法」の実践者也

ありがたい ありがたい ありがたい ありがたい